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一時前の緊張感は、煙草の煙と一緒に霧散していた。
「哀しいことに、ひまわりは枯れてしまったよ」
「は?」
ポンポン、と先生は微笑む。
その間も、開けてよ~、開けてよ~、と先輩の声がおいてけ掘りのごとく響いた。
「花壇の苗に名札をつけていたら、あの子にぬかれてしまったんだ」
「ああ……そうですか」
「だから、君も気をつけたまえ」
「は?」
意味不明な忠告の説明はせず、先生は無表情に扉を開く。
「あっ! ほら、美味し――っ!!」
――ガシャン!
「……」
「……っ…!」
持っていた食器を先生に叩きつけて、先輩がすさまじい目つきで彼を睨み付けた。
「はぁ……はぁ、はぁ、……」
原型を止めていない料理が、ぼたぼたと顎からしたたり落ちている。
先生はそれを指でなぞり、
「もうそんな時間か」
「どうして、わたしの部屋に居るの!」
「少し探し物をね……」
「探し物って――!」
先生の持つスケッチブックに目をとめ、彼女はそれを奪うと部屋に入った。
「靴をはいたままだ」
先生だけは動じていない。
「出ていきなさい!」
「すまなかったね」
美しい女性に、二度同じことを言わせるほど、先生は愚図ではないらしい。
気怠そうに、彼は夏の陽の中に消えた。
その背中は大人の広さを持っていて、先輩は冷たく燃える瞳でそれを射抜いている。
「君も、出て、いって……」
歯を食いしばってこちらを一瞥する。
あぁ、泣こうとしているんだ。
人前で泣けないほど、強い。
初めて先輩に拒絶されたが、悲しみはそこから溢れる物ではなかった。
泣くときに、僕の胸を必要とされなかったことが悲しい。
「また、あとで来ますから」
先生のように無言で出ていくことはできなかった。
後ろ手にドアを閉めて、僕は目を閉じて小鳥の鳴き声に耳をすましていた。
日陰にあるベンチに腰掛けながら、溜息をつく。
「何というか……ノックをせずに妹の部屋に入ったことがあって、着替えを覗いてしまった時でも、こんなに落ち込まなかったんですけどね」
「いや事情は知らないけどね、君、乗るの?」
バスの運転手だけが僕の話相手だった。
約120分間隔で話かけてくれる、心優しい人達だ。
「……」
空を見上げて、また地面に視線を下ろす。
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