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マネージャーからの電話を切り、渋々ながら事務所へと向かう。
今の気持ちを言葉で表すなら、面倒の一言だった。
あの人と出会い、少しは僕自身の人生もマシになったのだと……そう思っていた。
しかし、そんなことはただの勘違いであることに気付かされる。
僕はあることを考えていた。
とある昔。
自分のことには興味がない、という男がいた。
彼は自分のことよりも常に誰かを優先し、いつも誰かのために動く。
それなのに見返りは一切求めず、恩着せがましいことも言わない。
皆が憧れてもおかしくない彼は、皆に忌み嫌われていた。
そして恐れられていた。
彼の強い意志は誰にも変えられない。
僕はいつだって……彼に出会う前までは他人を信じることなどできなかったのだから。
心のどこかでは疑い、そして一定の距離を保ちながら接する。
それが当然で、当たり前だと思っていたから。
そしてもうひとり。
もうひとりは人を思いやることができ、落ち込んでいる時はしっかりと支えて前を見させてくれる優しさを持っていた。
誰よりも強い彼女は、他人が持ち合わせていない確かなものを秘めていた。
そんな彼女は深い悲しみを二つ持っている。
そのうちの一つを彼女は知らない。
それでも彼女はいつも前向きで、こちらが悲しいくらいに笑顔を与えてくれた。
人は出会う人間によって人生が左右される。
良くも悪くも、その人が人生の一部となる。
もう二度と会うことはない二人にとって僕は邪魔でしかなかった。
僕が全てを変えてしまった。
「お久しぶりです」
事務所の扉を開き、挨拶をする。
すると、そこには多田の姿があった。
多田義明。
この業界でこの人の名前を知らぬ者はいないだろう。
それ程の実績があり、力がある。
この事務所の大先輩であり、権力者だ。
「久しぶりだね、瀧井くん」
初めて会った時と同じ。
雰囲気が……とても慣れない。
体にまとわりつく嫌な空気が忘れられない。
「今日は、私から君に少し話がある」
そう言って、多田は僕を別室へと連れていく。
僕と多田以外には誰もいない部屋。
そして、お互いに向かい合わせになってイスに座る。
「初めて会ったときのことを私はよく覚えているが君はどうだい?」
その問いに僕は答えることができない。
事実、忘れたに近いからだ。
あの時は極度の緊張に耐えられず、自分がなんと言ったかさえあまり覚えてはいない。
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