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人は誰しも、少なからず知られたくないことや隠し事を抱えながら生きているもの。
形はどうあれ、僕にもそんな過去がある。
「何を言っているのか理解し難いですね、これ以上はあなたと話していても無駄な気がします。失礼や迷惑をかけたことは申し訳ありません。今後、一切会うことはないと思いますので」
早くこの場から去らなければならない。
本能的にそう悟った。
相手の返答を待たずしてドアノブに手をかける。
「また逃げるのか?東京へ来た時のように」
しかし、そのドアノブが回されることはなかった。
たぶん……いや、全てを多田は知っていると考えた方がいい。
わざわざ役所で戸籍まで調べるわけがない。
第一、そんなことはできないはず。
この人のレベルになると、人の過去でさえも簡単に調べられるというのだろうか。
末恐ろしいと言うか……この世界は、益々腐っている。
「生まれ、共に育ちは大阪。高校を卒業と同時に単身で東京へ上京し、今は都内の国立大学生兼俳優。まあ俳優は片手間ってとこか。君からすれば社会人となる選択肢の一つ過ぎない。けれどどうだ、誰から見ても素晴らしい成功を遂げているじゃないか。……山中慶一くん」
「全くもって不快でしかない」
……そう。
僕は一度、名前が変わっている。
あの事件以降、僕は“山中”という名を捨てた。
いや、捨てざるを得なかったんだ。
そうする他、選択肢はなかった。
でなければ、僕はこの世界でまともに生きることさえままならなかったであろう。
「名前を変えたのは、他に理由があったのか?例えば、あの事件の犠牲者だと世間から哀れむような眼差しで見られ、生きていくことが嫌だった……とか」
淡々と話す多田に僕は疑問を抱いていた。
たかだか大学生ひとりに労力を使い過ぎなんじゃないのか?
それにこの業界は人に名が知れ渡らなければならないとは言え、こんなことが公になればイメージは格段にダウンするだろう。
それとも悲劇の過去をあからさまにし、人々から応援されるとでも思っているのか?
「そんなことはどうでもいい。あなたは何故、僕に拘るんだ。僕を救ったという偽善的な名誉でも欲しいのですか」
「ただ単に、君に興味があっただけだ。理由を知りたいのであれば、私の傍を離れない方がいいんじゃないのか?」
少し口の端を上げ、多田は笑みを零した。
この人だけは読めない。
僕には、逃げ場すらない……ってことか。
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