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朝方、空がうっすらと明るくなってきた頃に母は家に帰ってくる。
僕を起こさないようにと、音を立てないように静かに玄関の鍵を掛ける。
そして必ず、一番最初に僕の寝顔を見に来てくれるんだ。
「慶一、ただいま」
眠っている僕にそう言って、何度か頭を撫でてくれる。
本当は飛びつきたいのに。
おかえりと返したいのに。
それさえもできず、寝たふりを続けるしかなかった。
慣れない酒を飲み、体の疲れや精神的な苦痛も我慢しながら働いているのだろう。
たまに、酷くやつれた表情を見せる。
大丈夫が口癖みたいな人だったけれど、疲れを隠しきれていないこともあった。
僕が起きる時間には既に母は起きていて、幼稚園へ向かう僕に弁当を持たせてくれる。
迎えのバスまで見送ってくれる母にこれ以上贅沢を言えなかった。
「はい、行ってらっしゃい」
笑顔で見送られることは確かに嬉しい。
だけど、僕は気付いていたんだ。
幼いながらも、気付いていた。
母は……病に侵されていた。
無理が重なり、ろくな物も食べていない母の体はもうボロボロだったのだろう。
詳しいことは知らない。
まだまだ、そんな難しいことは理解できない年齢だった。
働いて働いて……無理をして。
僕に少しでも良くしてあげようと、生活が苦しいのにも関わらずオモチャを買ってくれた。
周りは持っているのに僕だけは持っていない。
輪に入れなかった僕をかわいそうだと思ったからなのか。
……今となっては、もう何もわからない。
ただ一つわかることは、母は自らを犠牲にしたということ。
無償の愛情注ぎ続けてくれていたということ。
普通の子が感じる喜びが僕には何倍にも膨らんでいただろう。
一つだけ言えるなら、僕はそんな物は望んでなんかいなかった。
周りからいくら罵られても、バカにされても構わない。
母が傍にいてさえくれれば、その時の僕にそれ以上のことはなかったんだ。
それなのに。
無情にも、その日はやってきた。
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