第一章 愛歌<アイウタ>

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しばらくの沈黙の後、再びキズナが口を開いた。 「彼女の死は食い止めた。そして、彼女も生きる意味を見出した。これで良いでしょ? あなたも天に還りなさい」 ――綾華は、子供という希望を見つけた。きっともう大丈夫、彼女は強くなれる……俺がいなくても。 弘樹は小さく微笑みながら頷いた。 「さぁ、右手を出して。あなたが納得した今なら、私の鎌で "未練切り" が出来るはず」 キズナがそう言った時、バタバタという廊下を走る音が響いた。 弘樹とキズナが足音のする方へ振り向くと、看護士と女医が血相を変えて走っていく。 「309号室の松永さんが急に産気づいて。至急、分娩室へ運びました! 少し危険な状態で……」 看護士が走りながら、女医に状況の説明をしている。 「綾華?」 弘樹の顔色が変わった。 「弘樹、落ちつい……」 キズナが即座に振り返るが、その時には既に弘樹の姿はなかった。 『……少し危険な状態で……』 看護士の言葉が、廊下を走る弘樹の頭の中で何度も響く。 弘樹が分娩室に辿り着いた時、ちょうど綾華が運ばれてきた所だった。 「綾華!」 綾華の担架に飛びつき、そのまま一緒に分娩室に入っていく。 綾華は大量の汗を流し、苦しそうに呻いていた。その綾華の横で、看護士が必死に励ましている。 しかし…… 「なかなか赤ん坊が出てこない。このままだと、母親の体力がもたないわね」 女医の囁き声が弘樹の耳に入った。 「……弘樹……怖い……助けて……」 綾華が弱々しく呟き、天井に向かって手を伸ばす。 弘樹は急いでその手を握ろうとした。が、虚しくも弘樹の手は通り抜けてしまった。 「な……んで……俺は、手を握ってやることさえもできないのか?」 歯を食いしばり、そう呟く弘樹の目には涙が溜まっていた。 その時、 「弘樹?」 綾華が今にも消えそうな声で問いかけた。 綾華の顔は天井を向いたまま。しかし、目だけは確かに何かを探していた。 「弘樹……いるの?」 小さな声で問う綾華の目に涙が溢れた。 「綾華!」 綾華の瞳は弘樹の姿を捉えてはいない。だが、確かに弘樹の声に反応している。 今なら届く。……そう感じた。 「綾華、がんばれ! 俺、そばにいるから……ずっとここにいるから!」 綾華は痛みに耐えながらも、しっかりと頷いた。もう二度と触れることの出来ない愛する人を、心で感じながら。
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