第一章 愛歌<アイウタ>

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……不思議な感覚だった。 走っていても、地を蹴る感触はない。走るというより、滑ると言う方が正しいかもしれない。 見慣れた景色が、流れるように弘樹の横を通り過ぎてゆく。 右手の鎖も、不思議なもので弘樹についてきている。地面から離れさえしなければ、行動範囲は自由なようだ。 しばらくして、弘樹はある病院の一室の前に立っていた。扉の表札には『松永綾華』と書かれてある。 弘樹は気を落ち着かせ、静かに扉を通り抜けて部屋に入っていった。 清潔感のある部屋の中央には、白いベッド。その上に、今にもはち切れそうなお腹を抱えた女性が座っている。 長い黒髪を結って右肩に流しているその女性は、声を押し殺して泣いていた。 彼女の手には携帯電話。恐らく、弘樹の死を誰かに知らされたのだろう。 「綾華……」 弘樹の呼びかけにも、綾華は一切反応を示さない。 そっと彼女に近づくと、ベッド脇の小棚の上に剥きかけのリンゴを見つけた。 今にも訪れるであろう弘樹に、好物を出して喜ばせようとしていたに違いない。 しかし、そのリンゴは既に変色し、無惨にも茶色い塊になっていた。 「綾華、ごめん。ごめんな……」 そう呟く弘樹の頬に一筋の涙が流れた。 * * * 数十分後、病室から出てきた弘樹の目に入ったのは、先程出会った "魂の仕分け人"の少女。 「満足した?」 キズナが冷静に尋ねる。だが、弘樹は目を逸らし、無言のままキズナの横を通り過ぎていった。 ……1人になりたかった。綾華を苦しめている自分を心ゆくまで責めたかったから。 しかし、そんな弘樹の気持ちも知らずに、キズナは後ろからのこのこと付いてくる。 「なぁ、1人にしてくれないか?」 病院の中庭の入り口にさしかかった時、ついに弘樹が言葉を発した。 その言葉に、後ろを歩いていたキズナが足を止め、何かを言おうと口を開きかける。が…… 「無理だよー! 留まる魂を天に送り届けるのが "仕分け人" の役目なんだもん。離れちゃダメー!」 キズナの代わりに、その肩に乗っていた黒猫が甲高い声で答えた。その姿を、弘樹が驚いた顔で見つめている。 「その猫、しゃべるのか?」 「猫じゃないよ! ツキは "仕分け人" のパートナーなの!」 ツキが吠えるが、キズナは何事もなかったように話し出した。 「ツキの言う通り。私はあなたの魂を見張る必要がある。悪霊にならないようにね」
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