第3話 別れと出会い

7/26

0人が本棚に入れています
本棚に追加
/40ページ
 「実は、こんなものを書き残さなくても、わたしはこの夏の出来事をつぶさに思いだすことができます。今でもたまに、この夏の夜を夢見ます。とても大切な人を手に入れて、とても大切な人を失った夏休みを……。いつか、子供達に語って聞かせられればと思う。どこまでも果てのないひまわり畑。おっきな白い入道雲。塗り込められた風は、少し潮の香りを含んでいる。この夏休みが、ずっと続けばいいのに……。そう思えるような絵を、彼はこの夏に描いた。」  「……おはよう」  急に暗い部屋に入ったために眩んでいた視界が、徐々に光を取り戻す。  誰もいない教室。  いつも、返事は期待していないけれど、ちょっち淋しい。  クーラーをつけて、コーヒーをセットする。  手持ちぶさたに窓辺の椅子に座り、部屋を見渡すと、お母さんの絵はいつの間にか片づけられていた。  部屋はがらんとしている。  (……あの男は起きたのかしら)  物憂れげに頬杖をついて、まだ回転数の低い頭で考える。  教室の奥の、重苦しい木戸を見る。  道夫の私室であり、仕事場でもある部屋には重たい鍵がついていて、わたしですら一度も足を踏み入れたことがない。  「わたしですら」  自意識過剰かしら。  でも、自分の家の中で、入ったことがない部屋があるなんて普通じゃない……。  ぼーっとしているうちにコーヒーが沸く。  朝だけは、気が付くとお湯が沸いていて楽である。  コポコポとマグカップに茶色い液体を注ぐ。  途中で意識が飛びかけたが、あやういところで復調する。  机の上に上半身を投げ出すと、髪の毛がくらげみたいに散らばった。  クーラーが中途半端に効き始めて、室内の空気が生ぬるく流動していた。  アメーバ―は水飴の味。  「プリンに醤油でうにの味……きゅうりに蜂蜜でメロンの味……」  猫舌なので、香ばしい匂いだけを楽しむ。  カップから立ち上がる煙を見つめながら、うつらうつらとまた目を閉じる。  「……くぅ……」  ・  ・  ・  ・  ・  うだうだとしているうちにアイスコーヒーが出来上がり、体はいい具合に冷やされ、時間は昼近くとなっていた。  累計睡眠時間12時間。  こんなものだろう。  「さて、おっでかけ、おでかけ♪」  ハンカチとティッシュ。  持った。  スケッチブック。  持った。  鉛筆2本。  持った。  お財布。  
/40ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加