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あの時は、十和田湖へ続く奥入瀬渓流を見ながら歩き、折り返しの帰り道だった。
バスを降りて立ち寄った、睡蓮沼。
時刻は夕暮れで、遠くの空が赤く色付いていた。
八甲田山を映す沼は鏡のようで、その静かな空間に矢嶋と俺はそれぞれベンチに横になり、長い間言葉もなく、ただぼんやりと空を見上げた。
「トンボ」
矢嶋の呟きに、ああと答える。
夕暮れに赤く染まったトンボが、何匹も空を飛んでいた。
「水城」
名前を呼ばれ、返事をすると、しんと沈黙が訪れた。
暫く待ってみたものの、うんともすんとも言わない矢嶋に痺れをきらし、むくりと身体を起こして隣のベンチで寝転がる矢嶋を睨みつける。
「何だよ?」
矢嶋は目線を俺に向けると、ふっと目を細めて笑った。
「……ありがとう」
それが何に対しての言葉なのかわからず、俺は黙って矢嶋を見下ろした。
すると矢嶋はギュッと目をつぶり、それから大きな目を大きくあけて、ニッと口角を上げて、こう言った。
「俺、水城の事、すげー、大好きだ」
俺は暫くポカンとして、それからふぅんと小さく呟いた。
もしかしたら矢嶋にとって、高校に入って初めて出来た友達と呼べる存在が、俺なのかなと思ったんだ。
ありがとう、はその意味か。
そんなもんに、ありがとうなんて、いらないのに。
こいつはあほだなと思ったら笑えてきて、声をあげて笑ったら、矢嶋も笑い出した。
俺は再びごろりと仰向けに寝転び、夕焼けの空を眺めた。
この空間をとても居心地が良いと思い、それが何だか嬉しかった。
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