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「……婚約のお話なら、正式にお断わりを入れたはずですが。」
「――ええ。進藤さんが好きだからでしょう?」
ぴくりと久保の体が、雷に打たれたみたいに痙攣して強張る。
「……肺炎になるまで風邪を抉らせた原因も、彼女のせい。」
「――亜希は関係ないですよ。診断書を開けて、ご覧になったのでは?」
「いいえ、見てないわ。そんなもの、私には必要なかったから。」
久保は怪訝そうな顔になる。
「――私、あなたの元に駆け付けたのよ。」
「……万葉さんが?」
「ええ。あなたは行く度に、いつも眠っていたけど。」
久保は驚いてあんぐりとした表情になる。
「行方不明の進藤さんを探して、風邪を抉らせて肺炎になって。」
次の授業の始まる予鈴が鳴り響く。
「それでも、進藤さんはあなたの前には現われない。……違う?」
胸元に顔を埋めたままだった万葉がそっと見上げてくる。
「――彼女はあなたを幸せにはしないわ。」
亜希より少し低い声が、胸の奥の一番ナイーブな部分に響く。
教師として、社会人としての仮面が剥がれ、ただの久保 貴俊に戻ってしまう。
――恋に狂う男に。
久保はそれまで遠慮がちに引き剥がそうとしていた万葉を、力任せに引き剥がした。
そして、怒りを露わにする。
「俺は『幸せかどうか』は、主観的なものだと思っている。少なくともあなたに判断される事じゃない。」
そして、万葉の横を擦り抜ける。
「――俺の気持ちまで勝手に決め付けないで貰えませんか。」
苛立ちながら、ドアの前のカーテンに手を伸ばす。
万葉は久保の言葉に胸が痛くて堪らなくなった。
――手を伸ばす。
と、ドンッと背中に伝わってきた衝撃に、久保は目を丸くした。
背中には万葉が張り付くように抱き付いてきていて、胸元に彼女の腕が絡み付いてきている。
「――お願い。『結婚する』って言ってよ。わざわざ棘の道を行く必要はないでしょう?」
――思い詰めたような声。
久保は短くため息を吐くと、振り返る事もなく首を横に振った。
「――万葉さん、話を終わりにしましょう。……これ以上は平行線みたいだし。」
万葉の片腕を手にして、そっと体から引き剥がす。
そして、半身を翻すと、教師の仮面を被り直す。
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