56人が本棚に入れています
本棚に追加
「――私はあなたの元へは帰らない。」
久保は目を見開いたまま、硬直する。
――これは誰だ?
――亜希の格好をした別人?
セミロングの髪も、桜桃のような唇も、いなくなった時と何も変わらないのに。
「――私ね、高津さんと一緒に居ることにしたの。」
無表情のまま、感情の起伏なく淡々と言葉を紡ぐ亜希の気持ちを、久保はその表情から窺い知る事は出来なかった。
「……なぜ。」
擦れた声が、哀しみを誘う。
「一緒にいても、久保センを傷付けるだけ……。」
彼を傷付けたくないと思っていたのに、気が付けば加害者に回っている。
――最低な女、だ。
それ以上、久保と目を合わせてるのが出来なくて、再び、高津に縋りつく。
カウンセラー室の中なのに、気分は東尋坊の崖に立たされているような心地だ。
「……私ね、久保センには相応しくない。」
大好きな久保の顔が苦痛に歪むのが気配で分かる。
――そんな顔、しないで。
「……相応しいとか、そんなことはどうだっていいんだ!」
久保が絞りだすように声を掛けてくる。
手を伸ばせば触れられる距離なのに酷く遠い。
亜希は高津の陰に再び身を隠しながら答えた。
「……良くないよ。」
再び見せた亜希は苦渋に満ちた表情に変わっている。
「良くないんだよ、久保セン……。久保センは立派な教師にならなきゃ。」
亜希の表情はいつになく真剣で、久保の心はぐんぐんと冷えていく。
「汚れた私なんかじゃなく、一緒にいるのは万葉さんみたいな人でなきゃダメ。」
(……そんな風に思っていたのか。)
胸が塞がるような心地。
「――亜希はどこも汚れてないよ。」
なるだけ優しく言い聞かせる。
「……気にしなくて良い。あれは、そいつに嵌められただけだろう?」
そう諭してみても、亜希は首を横に振るだけだ。
「それは詭弁だよ。もう一緒にいられないの……。住む世界が変わっちゃったんだよ。」
諦めにも似た表情を亜希は浮かべる。
――憂いを帯びた表情。
それはぞっとするほど、美しかった。
最初のコメントを投稿しよう!