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「久保先生、今晩、何か用事ありますか?」
「……いいえ。空いてますけど。」
「あ、じゃあ、急なんですけど、今夜、宿直を変わっていただけませんか? 実は妻だけでなく、末の子供まで熱を出してるんで。」
手を合わせてくる安東に久保は快諾した。
「ええ、構いませんよ。困った時はお互い様ですから。早く帰って、安心させてあげてください。」
「ありがとうございます! 恩に着ます。」
そして、夕暮れ時にお礼を言いながら安東が帰宅する姿を目で追いながら、久保はため息を吐いた。
(家か……。)
ここ二週間ほど、ろくに家に帰っていない。
(帰っても、眠れないしな……。)
肉体的な疲れもあって、とろとろとニ、三時間は眠るものの、決まって悪夢に目を覚ます。
〈――サヨナラ。〉
亜希がそう言って自分に背を向ける。
資料を手にしたままハッと我に返ると、久保はそれを机にぱさりと置いた。
辺りを見回せば、夕闇迫る部屋の中はガランとしている。
――ひとり。
そう思うと教師の仮面が剥がれてしまう。
(……くそっ。)
袖で拭っても、涙が溢れてくる。
家族の病気で大変だと話していた安東さえ羨ましく感じるあたり、相当、重症なのかもしれない。
仕事はちっとも身が入らない。
――まるで、始業式の前の日みたいに。
あの日は亜希が来るのを楽しみにして、一日中、そわそわと落ち着かなかったのに。
――あれからひと月。
今は亜希との思い出から離れたくて仕方なかった。
ふとした瞬間に亜希が蘇ると、自然と涙が溢れてくる。
久保は顔を覆って、涙が引くのを待つと、気分転換も兼ねて夕暮れの校内を巡り始めた。
廊下から見える景色は昔と変わらない。
春が来て、そして過ぎ去っていく。
久保は新校舎側の階段を昇りながら、ふわりと落ちてきた亜希を思い出す。
あの時、抱きとめた亜希は、柔らかくて甘い匂いがしていた。
(確かにこの腕は亜希を抱きとめていたはずなのに……。)
久保は固く拳を握る。
窓の外の夕陽は立夏を迎えて、昨日までとは違う輝きをしていた。
(――今年も春が終わる。)
亜希の行方はようとして知れず、生きてるのか、死んでるのかさえ分からない。
そして、泣き叫びだしたい衝動にかられて目を閉じた。
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