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廊下の角を曲がれば、髪を靡かせて姿を現さないだろうか。
国語科準備室に入ると余計にその思いは強くなる。
電気を点けてすぐの、亜希の指定席に触れる。
トントントンとドアをノックして、ひょっこり顔を見せてくれないだろうか。
だけど、そんな気配は微塵もなくて。
やがて日が沈んでいく。
(――早く、俺を安心させてくれよ。)
五年前の事なのに昨日のように思い出される。
あの春は遅咲きの紅梅が咲いていて、沈丁花の香りがキツいくらいに香っていた。
(あの日の亜希は、卒業証書を片手に、友達との別れを惜しんでいたっけ……。)
無事に志望校に合格をした亜希が、本当に嬉しそうだったから、彼女を手放したくないと騒ぐ想いを押し殺した。
――卒業式の日。
亜希は胸に沈丁花の花を胸のポケットにさして、ふいに国語科準備室に現われた。
小さく首を傾げて、肩まである髪は重力に引かれて扇形に広がる。
「……久保セン?」
そして、このドアのところで、何か言いたげな顔をしていた。
「なんだ?」
「……卒業証書を見せにきたの。」
「さっき俺が渡しただろうが。」
「うん。だけど、見せにきたの。」
はにかむように笑う。
――屈託ない笑顔。
そして、頬を染めて、少し照れた表情。
あの日の亜希が鮮やかに蘇ってくる。
――沈丁花の甘く痺れるような香り。
あの日から久保の心は亜希に囚われていた。
(亜希、どこにいる……?)
目を開けると、そこは誰も居ない国語科準備室で。
胸がぺしゃんこに潰れてしまいそうに苦しかった。
(……頼むから、戻ってきてくれ。)
深く鼻から息を吸い込み、想いを深く長い吐息に乗せる。
久保はあの日の亜希に会いたくて堪らなかった。
蛹からかえって、急に大人になったように見えたあの日の亜希に。
頬を薔薇色に染めて、気恥ずかしそうにしていた彼女に。
「……何?」
「あのね、私の夢。言わなきゃって思って。」
「……ん?」
「スクールカウンセラーになるの。ガッツ先生とか久保センみたいにね、みんなが頼ってくれるような。」
「……そうか。」
そう目をキラキラさせて言う亜希の姿は輝いて見えて、久保も誇らしい気持ちになったものだ。
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