北極星

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 空襲から二週間も経つと、いよいよ彼女の死は、誰の目にも判る程に近づいていたの。家には酷い腐臭が立ち込めて、包帯を取り替えても取り替えても、傷には蛆が湧くようになっていたわ。蛆の湧いた部分が痒くて痒くて、彼女は、昼も夜も、蛆を取って、蛆を取って、ってうわ言のように呟き続けた。家族は彼女の体中に這う蛆を、一つ一つ箸で摘んで取り除いていたわ。もう、彼女の意識が正気ではないことは誰の目にも明らかだった。 そしてとうとう、彼女はつぶやく力も無くして、ぼぅっと空虚を見つめるだけになってしまったの。  汗をかいているのね。気持ちの悪い話だもの。仕方がないわ。  でもね、もう食事も摂れず、スプーンで口元に重湯を流し込まれるだけになった彼女を見て、もうダメなのか、と彼女の家族たちが悲しんでいると、彼女はポツリと呟いたの。 ―桜が見たい。  その日は三月の終わり頃で、まだ桜には早かった。だけれど、家族は、きっとこれが彼女の最後の願いになるのだろう―と思って、彼女を大八車に乗せて、山門をくぐったの。すると、奇跡が起きた。  それは、見事な桜だったわ。一面に桜の花びらが舞い散り、息を呑むような美しさ。どの木を見ても、満開の桜ばかり。松も合歓も他の木も見当たらない。一面の桜の木々。それまで、彼女の看病で頭がいっぱいだった彼女の家族も、その一瞬、すべてを忘れて、一面に咲き乱れる桜に魅入っていたわ。皆息を呑んで桜の花々に吸い寄せられるように境内を進んでいった。そうしているうちに枝垂桜のところまで来ると、彼女が呟いたの。 ―ありがとう。やっと彼と会えた。 全員が、はっと我に返って彼女の方を見ると、その刹那一陣の風が吹いてね。目を開けると、周りの景色は、一面の桜の木々も消えて普通の木に戻り、いつもどおりの境内に戻っていたわ。そして、彼女も既に息を引き取っていたの。
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