0人が本棚に入れています
本棚に追加
梅雨も終わりに近づいたある日、僕は思い切って彼女を食事に誘った。段取りはこうだ。僕はいつも持っている弁当を今日は忘れてきた。だから、せっかくだから一緒になにか食べに行かないか、という具合だ。
「ふふふ、ありがとう」
しかし彼女は、ふと、目を伏せた。
「でも、私は無理。私はここに根を下ろしてしまっているから。私は比喩ではなく、紫陽花そのものなのよ。誰かが訪れてくれるのを待って、その人の話を効くだけ。私から何かを話すことなんて無いのよ。でも、アナタは特別。こんな事は初めてよ。自分でも説明がつかないのだけれど、きっと、アナタは私にとっての石灰になったのだと思う。この想いは、決して忘れないわ」
少し急ぎすぎたかもしれない。はぐらかされてしまった。
しとしとと振り続ける雨の中、遠くの雲間が切れて、青い空が眩しく覗いた。
「もう、梅雨が明けるわ」
その日以来、彼女と出会うことはなかった。
梅雨が明けると、もっぱらの猛暑で、なかなか雨が降らなかった。そして、やっと雨が降ったある日、いつもの場所に行くと、そこにあったはずの東屋は消えていて、代わりに、大きく立派な紫陽花が植わっていた。その紫陽花の花は、他のどれよりも深く紅く、そして、静かに雨に打たれていた。
僕は、紫陽花について調べ、そして、いくつかの事柄を知った。紫陽花の学名を日本語に訳すと、水の器であること。紫陽花の葉には毒があること。紫陽花の花言葉が“うつろい”や“頑なな愛”とあること。きっと僕は、紫陽花の毒にやられていたのだろう。
そして、その毒は、少しの時間を経て、僕にとっての石灰となったのだ。そして水生植物園のあの紫陽花もまた、毎年、見事に一際わ深く紅い花を付け続けた。
最近、息子がよく遅刻をしたり学校をサボったりするらしい。それも、雨の日に限ってだ。息子に問いただすと、新しい友だちができたそうだ。その友だちは、いつも深く紅い色のワンピースを着ているらしい。僕は、息子の担任に「梅雨が明ければ、また普通に登校しますよ」とだけ連絡を入れることにした。
最初のコメントを投稿しよう!