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ニュースなどでは残暑と言われているが、いまだに夏真っ盛りといった天気だった。
視界の端を一台の車が横ぎり、ぶわりと風が巻き上げられた。ふと、視線がそちらへ引き寄せられる。
引き寄せられた視線の先。道を挟んだ向こう側に、たくさんの音符で飾られたアンティークな外装の店があった。
『ミュージック・アトリエ』
直訳すると音楽の工房。楽器屋なのか、それとも収録用のスタジオだろうか。遠くから眺めているだけでは、店の中までは見えなかった。
五十嵐(いがらし)将也(まさや)は、ポケットに手をやった。夏のバイトでためた十万円ちょっとの金は、しっかり財布に入っている。将也は、その感触を確かめて少しだけ安堵した。
道路を渡って少し近づくと、ようやく楽器屋だということが分かった。近くで見ると、独特の近寄りがたさを醸し出している。その店構えに、将也の足が止まった。
別に、楽器を買いたいわけではない。ただ、十万円を元手に何かを始めたいだけだった。楽器以外にも、別の道はある。楽器を買うにしても、ここじゃなくてもいいじゃないか。
言い訳だとわかっていても、どうしてもそんな言葉が脳裏をよぎった。
二の足を踏んでしまう気持ちを、振り払う。ここで行けないなら、他のところでも行けないだろう。入るだけならタダだ。行かないでどうする。
自分に言い聞かせ、一歩だけ踏み出した。自動ドアが将也を迎えるように開き、店内の涼しい空気が流れ出してくる。ほのかな木の香りが、とても心地よかった。
服の裏に溜まっていた汗が、すっと引いてゆく。だが、寒いほどではない。しっかり客の事を考えた温度設定なのか、それとも楽器にとっての適温がたまたま人間にもちょうど良かっただけなのか。
「いらっしゃい。適当に見てってね」
店の奥から、澄んだ女性の声が聞こえた。その言葉に甘え、店の中をぐるりと見回してみる。壁一面に、壁紙のようにギターがかけられている。そのバリエーションは数多く、楽器についての専門知識があれば、一日中見ていても飽きることがないのだろう。
軽く流すように見ていた目が、なにか違和感を感じたかのように引き戻された。何の変哲もない、店の中でも一番多い形のギター。だが、なぜか目が釘付けになった。
何かが違う、と思った。
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