第1話

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 桐香は竹田のシャツの裾をきゅ、と掴むと顔を上げた。そして、濡れた頬を手の甲で拭うと竹田に顔を向ける。  竹田と元彼の面影は決して重なることはなかった。だが、不思議なことに桐香は多少涙声ながらも、そこにいるのが大好きだったあの男であるかのように、いつもの通り歌いきることができた。  そして、歌いきった瞬間……別の何かも同時に終わったような気がした。  * * *  何時の間にか、選曲数を示す赤い数字はゼロになっている。カクテルの空き瓶が並ぶ前、桐香はすっかり赤い顔で竹田の胸に頭をもたれさせていた。 「大丈夫?酔ってるでしょ相馬さん」 「んー?酔ってないよぉ」  んふふっ、と笑い声を立てる桐香。次の瞬間、彼女は少しだけ真剣な顔をしてみせると、俯いたまま竹田に尋ねた。 「ねえ――」 「ん?」 「……どうして、フラれちゃったんだろうねえ、あたしたち……」  そんな風に尋ねながらも、桐香本人はその答えを何となく解りはじめていた。何気ない日常の動作で思い出したように恋人の不在を思い知るということ。いつもそこにあったものが急に消えた喪失感。桐香は別れた彼のことを「恋人」という存在としてではなく、「そこにいて当然」の存在としてしか見ていなかった。そんな彼女の態度が彼を苛立たせたのだろう。  そして、同じ失恋の傷を抱えているにもかかわらず、フラフラの桐香に胸を貸してくれているこの男は。 「……竹田クンって、優し過ぎる」 「あ、それアイツにも言われた」  桐香の呟きに自嘲を含んだ笑みを浮かべる竹田。  竹田の胸は居心地がよかった。規則的な心臓の鼓動、シャツ越しに感じる彼の温もり。そっと背中に添えられた手もとても温かい。桐香は何だか久々に人の温もりを感じたような気がしていた。  バカだね、あたし。こんな気持ちを忘れていたなんて。  誰かと触れ合うことで癒されるということ。好きな人と初めて触れ合えた喜び。そんなものを、桐香は竹田の腕の中で思い出していた。  お互いを激しく求めて抱き合うよりも、身を委ねた相手に抱きしめられた方が心が満たされてキモチイイこともある。今、桐香はまさにそんな気分だった。 * * * 「ホント、ごめんなさい……」
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