第1話

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 俯いている彼の前髪から滴る水滴が、彼がこの寂しい場所に出てきてかなり時間が経っていることを物語る。地下道や駅前のデパートがすぐ近くにあるこの場所で雨宿りもせず一体何をしているのだろう……不審なモノを見る目つきでその男を見つめていた桐香だったが、不意に彼が髪をかき上げ、自分を見つめている女の存在に気づいて少しバツの悪そうな自嘲の表情を浮かべた瞬間、思わずドキッとした。その表情は、先ほどファミレスのガラスで見た可哀想な女の表情……泣きそうだった桐香自身の顔に通じるものがあったのだ。 「ねえ」  桐香は彼に声を掛けていた。フラれたばっかりなのに、何を逆ナンまがいのことをしているんだろう、とワケのわからない自分の行動にゲンナリしつつ。 「あたしとさ、そこの地下道で雨宿りしない?」 * * *  頭上を走る国道を車が通りすぎる音が、狭い地下道に響いている。桐香とずぶ濡れ男が座っている階段の上からは、湿った冷たい空気と雨の音、車が水溜りを踏みつけてゆくバシャバシャという音がひっきりなしに入り込んできた。そんな中で、二人の間には未だ会話らしい会話も交わされてはいなかった。  自分から誘ったくせに、身勝手にも退屈を感じていた桐香は、鞄からずっとマナーモードにしていた携帯電話を取り出した。彼女の携帯電話は地下に弱いので電波状態をあらわす棒は一本やっと立っている程度だ。そしてディスプレイを確認すると桐香はメモリ画面を呼び出す。彼女は、先ほど自分を振った男の番号を一刻も早く消そうと思った。七ヶ月、いやそれ以上自分が好きだった男の名前を自分の中から消してしまいたかった。  桐香がクリアボタンに指を置いた瞬間、ずっと黙っていた男がいきなり口を開いた。 「……あのさ」 「え?」  突然のことに驚いて思わず彼を見る。彼は少し困ったような顔で、そんな彼女を見つめていた。 「何で……俺を誘ったワケ?」  国道を走る自動車が水溜りを踏みつけてゆく音を背に、湿った灰色のコンクリート階段に視線を落としたままの姿勢で尋ねる彼。桐香は携帯電話のディスプレイを見つめたまま、驚き半分気まずさ半分の顔で考え込む。
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