第1話

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 桐香は目が慣れて部屋の中が見えるようになるまで、何をするでもなくボーッとクッションに頬杖をついていたが、顔にまとわりつく髪が気になったのかそれを指で跳ね上げると、溜息ひとつバスルームへ向かう。気がつけば額もじんわりと汗で濡れていた。  バスルームの薄明るいイエローのライトだけが光源の部屋の中、緩慢な動作で服を脱いでゆく。一糸纏わぬ姿になると、それだけで随分涼しく感じるのに気がついた。  思えば暑くなったものだ。六月も終わりに近づけば、窓を閉めきった部屋の中は随分と蒸し暑くなる。元彼と付き合い出したのが冬。寒いこのバスルームで、出しっぱなしにしたシャワーから降るお湯の中二人してじゃれあって暖めあったこともあった。そんな日はベッドの中、二人で冷えた毛布の中にもぐりこんでも少しも寒くなかった。  結局元彼とは一緒にこの季節を体験することはなかったが、そう考えると一人でも十分暑いこの時期が、何だか妙に可笑しい。  * * *  バスタオルでぐしぐしと濡れた髪を拭きながら、桐香はおよそ十時間ぶりに明かりがついた部屋に戻る。相変わらず部屋の中は静かだったが、マンションの前を通る車のエンジン音が少しだけ救いになっていた。お陰で寝る前よりは精神的に落ち着いている桐香だったが、やはり物足りなさを感じて服を着る前に枕もとのリモコンを手に取ると、ベッドに腰を下ろしながらCDを再生する。 「ぅわっ!」  寝る前に音量を上げたせいでかなり大きな重低音がスピーカーから流れ出し、桐香は思わず飛び退いた。この大音響で熟睡していたとは……と、何だか自分に対して感心するとともに思わず同情してしまう。  このままでは隣室に申し訳ないのでとりあえず音量を下げる。バスタオルを頭に被ったままシャツを羽織ると、テーブルの上の携帯電話を取り上げた。  ふと、昼間のことを思い出す桐香。  昼間仲良くなった彼――竹田祐司といっただろうか、彼は今ごろ何をしているのだろう。勝手な思いこみなのかも知れないが、桐香には彼も無口なまま一人きりで部屋にいるのではないか、という気がしてならなかった。  丁度、自分自身がそうであるように。
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