0人が本棚に入れています
本棚に追加
/5ページ
どんなに叫んでも彼には聞こえない。
どんなに手を伸ばしても彼には触れられない。
もう一度でいい。たった一瞬でいい。
もし神様がいるのならば、理不尽だらけなあの世界にはいなかった神様がこの世界にはいるのならば。
伝えさせて。これだけは零すものかと必死にせき止める思いを。
私から少しずつ、でも確実に零れ落ちていく意識。思い。
神様がいるのなら、最後の一雫だけでいい。
彼に届けて。
彼だけでも……せめて彼だけでも。
助けて。
「美鈴」
彼は私をじっと見つめてそれから何も言わない。じっと私を捉えるその視線は心なしか揺れている。震えているようにすら思えた。私を吸い込んでやまないその黒く透き通った瞳。そこにすでに吸い込まれている私は微かに笑みをこぼしている。
「そろそろ何か言ったらどうなの? 不満?」
答えはわかっているくせにあえて尋ねる私の姿はあの女性店員にはさぞあざとく映っていることだろう。それでも私は彼に言ってほしいのだ。
「ほらあ。早く言いなさいよ」
「なら言わない」
「じゃあ、もう着ないよ?」
吸い込まれている私が消える。私を見てくる私がいたところを私はじっと見つめる。じいっと。彼が決心するまで。彼に決心させるまで。
「綺麗。本当に。嬉しい」
たどたどしく言葉を紡ぐ彼の瞳は私を吸い込まない。床を吸い込んでいる。
「なあに? 聞こえなーい」
しかめ面を作ってわざと彼の前に姿をさらす。端に見える店員は見えていないと思っているのか頬が痙攣しているのを隠していない。
「そんなにじーっと見てくるなって」
やっと決心したのか吸い込んでくれた。私が再びそこに現れる。
「……毎日でも見ていたい。それくらい、綺麗」
「なら、目に焼き付けときなさい。そうしたら、夢にでも出てあげようじゃないの」
私は彼を吸い込むのをやめた。嬉しさを気取られぬように、そして瞳を見られないように。たとえこういうときであっても見られたくないのは私のプライドだった。
「な、なによ」
「ん、いや、なんでもないよ」
彼の指は私の瞳からその雫を奪っていった。何事もなかったように。奪っているのに、優しく静かに。
「どうもありがとうございました」
「来週もよろしくお願いします」
「ええ、こちらこそ。ご結婚、おめでとうございます」
最初のコメントを投稿しよう!