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「ありがとうございます。でも、まだ早いですよ。式の日に婚姻届を出す予定なので」
「それは失礼いたしました」
「いえ、ありがとうございました。やはり、それを言われると嬉しくなっちゃうものですので」
「そうですか。それでは、当日もよろしくお願い致します」
「美鈴。大丈夫か?」
「え、何が?」
長いこと電車に揺られて最寄りの駅で降りた時だった。数時間にも及ぶ試着の繰り返しのせいで疲労がたまったと思ったのだろう。彼は不安げに私を覗き込んできた。ずっと無言だったからでもあるのだろう。
「別に大丈夫よ、あれくらい」
とがった言い方をしたようだった。私を映し返すその透き通った黒い瞳に影が入った気がした。そこにいる私は不機嫌そうだ。口が少しとがっているようにも思える。
「ほら」
「なによ」
すっと前に出された彼のしなやかな右の手と彼の中の私を交互に見つめた。私を見ればわかる。つっけんどんにそうは言ったものの、とがった口は横にわずかに広がり始めていた。こういうことがある度に私は自分の単純さにため息をつきたくなる。
「よし、じゃあ帰ろうか」
「うん」
私の左手はほんのりと温かい。彼の手はすべてを温かさに変えてしまう。疲れだけでなく、嫉妬すら温かいと感じられるようにしてくれる。引っ張ってくれているはずなのに、うつむきかげんに歩く私の背中を押してくれているような錯覚を与えてくる。前にも後ろにも彼がいて私を支えていてくれている。彼に出会ったその時もそうだった気がする。それは温かくて、失いたくなくて、大切で。だから、そんな彼からずっと一緒にいてと言われた時はとにかく嬉しくて。いいよ、なんてぶっきらぼうに言ったけど本当に嬉しくて。
「いよいよ来週だね」
「うん」
「特に何かがすぐに変わるというわけではないとは思うけど……」
「なあに? 緊張してるの? らしくないわね」
彼は心なしか赤くなっているように思えた。彼の後ろに輝く夕日の赤く暖かな光せいかもしれないが。それでも微笑んでいるのだ、ということだけはわかった。いつものあの温かさを感じる。
「まあね。そりゃ、緊張しないわけないさ」
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