消えた影と潜む影。

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「アドバイスありがとうございます。 これで勉強頑張ってみますね」 見れば薫の手には『宅建』のタイトルが、大きな文字サイズで堂々あしらわれたテキストが抱えられている。 瀬名は思わず、清算済みの証として紙袋に入った本を背後に回した。 過去にも抱いた、自分の趣向の後ろめたさからの隠したい衝動だ。 「主任、まだ料理好きなんですね」 ふっくらとした真紅の唇が、穏やかな笑みを含ませ紡いだ。 瞬間、場の色が変わったのは瀬名の気のせいだろうか。 薫の柔和な口調とはアンバランスに、彼女と水上を纏う空気が張ったように思われる。 水上は何も答えない。 再度会釈して立ち去る薫の発言に、瀬名は妙な引っ掛かりを覚えた。 『まだ』 その語句が用いられた違和感。 そしてバニラ系のスイーツを彷彿とさせる甘い香りを残して、床を打つパンプスの音が瀬名の耳から遠ざかった。 「さっき声を掛けられた。偶然向こうも来てたらしくて。宅建の試験受ける予定だけど、このテキストどうですかって」 宅建―――宅地建物取引主任者は建築、不動産業界で重宝される資格だ。 資格者でなければ取り扱えない業務が国で定められているため、資格を有するかそうでないかでワークスタイルや幅、勤務評価に大きく影響する。 先月マンション管理士の合格を掴んだ水上が、既に宅建の資格保有者である事は、いつかの会話で彼自身から聞いていた瀬名だ。
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