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ぞくりと肌が粟立ったような気がしたのは、薫の言葉の意味を大袈裟に捉えすぎたからだろうか。
―――読めない。
個人的に、だなんて一体何を。
『ねぇ、北川さん。
良かったら、どこかでお話ししませんか?食事でもとりながら』
「……え…」
『北川さんだけに伝えたい事があるんです。
それも出来るなら、なるべく早めに』
ツッと背筋をなぞられたような、受話器越しのあでやかな声。
何か返答しなければと思うのに、凍り付いたような喉からは承諾も拒否もどちらの言葉も出てこない。
だが混乱の思考の中でも一つ確実に捉えているのは、相手が会社において大事な顧客であるという事。
そして薫が新規案件の仲立ちをしている以上は彼女の方が上の立場であり、こちら側は下手な言動を起こさぬよう留意しなければならないという事だ。
ここで自分が断ったらどうなるか?
彼女が大人げない行動をとるとは窺いたくもないし、勝手にこちらが混同させているだけかもしれない。
第一、断るにしても理由がない。
相手が異性なら、性別を盾に断る理由は見つからなくもないが彼女は同性だ。
「…分かりました。
その日はいつが宜しいでしょうか」
現在の居場所が事務所であると意識して、瀬名は努めて平静を心掛ける。
『そうですね、早いに越した事はないので…早速ですけど今日はいかがですか?就業後にでも』
「はい、大丈夫です」
『私は営業職ですし、今夜は特に予定は入ってませんので融通が利きます。
北川さんの仕事が終わり次第、今掛けている番号まで連絡して下さい。私の携帯です』
では、また。
互いのその言葉を合図に、瀬名は耳に押し当てていた受話器をそっと下ろした。
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