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薫が指す『あの事』に、見当をつけられない瀬名は動揺を隠しきれない。
ふ、と笑いが個室に漏れた。
相手を見下した、嘲笑う声の再来だ。
「何だ。わざわざ別れを提案するまでもないじゃない。
主任はあなたと本気で付き合ってなんかないわ」
「本気です!私達遊びなんかじゃ…」
「どうかしら。
本命の彼女という立場なら、彼のデータとして知っているはずよね。
前社長、つまり“お付き合いしている彼”の父親が、とうに亡くなっている事くらい」
(…亡くなっ……!)
瀬名は言葉を失った。
頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。
―――知らなかった。
耳から脳に、脳から全身に衝撃が走り、心臓が止まってしまったような気さえした。
「…お、お母さんの方は…」
「そちらはご健在よ。
ただ、主任が大学生の頃に離婚して今は別の男性と家庭を設けてるわ」
茫然自失の瀬名に、薫の妖艶な声が追い討ちを掛ける。
「一過性の付き合いだから、自分の家族構成すら明かす必要が無かったのね。
ま、イズミ建設に関わる人間なら当たり前の情報だけれど。
それすら知らされずに本気で交際してるだなんて、思い上がらされたあなたには同情するわ」
「―――…っ」
「ついでに、主任があなたに対して本気でない他の理由も教えてあげる」
これは別れた方がいい二つ目の理由として言おうと思ってた事なんだけれど。
得意気にそう前置きして、内向きの髪先を再び耳の後ろに回した。
「北川さん。あなたのご実家、それなりの土地をお持ちよね」
それが何か。どうしてその事を。
浮かんだフレーズは脳裏を駆け巡るばかりで、一つも口から出てこない。
喉は水分を失いヒリヒリと、視点は定まらず虚ろに揺れる。
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