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瀬名が帰宅した頃には、夏の太陽は完全に姿を隠して夜の闇にバトンタッチしていた。
夕食は外で済ませると事前に連絡していたからか、自宅アパートに沙那の姿はなく。
いつもなら『例の彼と出掛けているのだろうか』と想像しては悦に入る次第だが、今の瀬名にそのような余裕は微塵も無かった。
だが沙那が居なかったのは幸いだったかもしれない。
帰るなり早々、瀬名は布団を敷いて倒れ込む。
寝室はもわりと湿った空気が立ち込めていたが、一度横たわった体は窓を開けるために起き上がろうとはせず。
全身は鎖に縛られているように重く、上から何かに押し潰されているように苦しかった。
“主任はあなたと本気で付き合ってなんかないわ”
耳に残ったフレーズは胸を突き立て、消えては浮かび消えては浮かびを繰り返す。
制止の利かない再生テープは、どこまでも瀬名の心を蝕んだ。
(…どうして、話してくれなかったんだろう…)
ちっとも知らなかった、彼の事。
思えば、過去や家族について尋ねるとはぐらかされてしまう節があった。
巧妙だったのか、いつの間にか擦り変わった話題に引き摺るほどの疑問は沸かなかった。
もう隠し事はしないと、誓い合ったはずじゃなかったのか。
自分達には会話が足りてない。
だから信頼関係が築けていないのではないかと。
たくさん話をしてお互いを分かり合おうと、同じ気持ちだと思っていた。
“本気の交際じゃないから、家族構成まで明かす必要が無かったのね”
どんなに振り払おうとしても。
皮肉と憐れみに満ちた薫の言葉が、答えを如実に表している気がした。
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