324人が本棚に入れています
本棚に追加
「過去に囚われてちゃ駄目だ」
愛しい彼女も、以前は過去の出来事に縛られていた。
本当の自分を見せられない苦痛と、見せてしまった時の相手の反応に怯えながら。
それでも、好きな人の前では偽れないからと、固い決意を抱いて打ち明けたのだ。
今でも鮮明に思い出せる。
夕陽のオレンジに染まる展望台で、彼女の震えた声、流した涙、歓喜に満ちた笑顔。
自分の胸に初めて飛び込んだ華奢な体。
過去から抜け出そうと自ら前に進んだ証だ。
「前を見よう。
俺も津田も、もう昔の話を持ち出すのはナシだ」
「分かった。でも応援は変わらずさせてもらうよ。
水上が幸せそうだと僕も嬉しいし。
“償い”抜きのお節介なら許されるでしょう?」
根負けしたように水上は小さく笑う。
「そこまで思ってもらえてるなら既に俺は幸せ者だよ。
だからいい加減、津田は自分の世話も焼いた方がいいぞ」
「はいはい」
再びコックコートを羽織った津田に見送られて、今度こそ店を後にした水上。
車の運転席に乗り込むも、暫し思惟にふけったのち携帯電話が取り出される。
「……話したい事があるんだけど……そう、直接」
きっぱりとした口調で、繋がった通話相手に投げ掛けると。
相手は水上からの電話を予期していたかのように、極めて冷静に現在の居場所を告げた。
(…瀬名。
もう少しだけ待ってくれるだろうか)
今宵の逢瀬も叶わぬ彼女に想いを馳せながら、エンジンを駆動させた水上の車は、陽の沈みきらない真夏の夜を走り抜けた。
最初のコメントを投稿しよう!