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薫も釣られて腰を上げたが、それ以上前に踏み出す事はない。
茫然自失に立ち尽くす彼女の姿は、背を向け遠ざかる水上の視界から外れていた。
(…しまったな。
コーヒーぐらいは頼むべきだった…)
入店早々に目的の人物を見つけ、注文もせずに席に着いた己の非礼を悔やむ。
次回の来店時はメニューの中から一番高い品を注文しよう。
そう思案する水上の懸念は店と店員に対してのみで、店内に独り残された彼女にはいささかも向けられていなかった。
***
金曜日の夜は、事務所の休業日が連続する前日のため忙しくなる率が高い。
『今週中にお願いします』とクライアントに依頼していた原稿が金曜日の夕方に滑り込みで届く事も多々、それもこちらの休業日を考慮せず『月曜納期で』という無茶振りも稀にある。
本日の瀬名の身に起きたのもそれに近かった。
しかも癖のある手書きのファックス原稿であったため、OCR(文字読取機能)を使用しても入力に手間取り、定時を超えた瀬名には地味な疲弊がのしかかっていた。
だが、仕事の忙しさは逆に有難かった。
明日は土曜日。そして水上から、有休をとったと告げられた日だ。
自ら距離を置きたいと申し出たものの、仕事の合間が空くとふと脳裏にそれが過ってしまう。
休日丸一日を使っての普通のデートがしたい。
その願望を反映させるべくの彼の有休であったが、今の自分たちの関係ではおそらく叶わないだろう。
マイナスの見解に針は振れていた。
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