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早くも食べ終えてしまった水上は、ごちそうさま、と手を合わせると、食器をテーブルの端に寄せ頬杖をついた。
懇願するような真っ直ぐな眼差しに、困惑する瀬名の箸が止んでしまう。
「…下の、名前…」
「うん、知ってるよね」
知らない訳がない。
貰った名刺は今もパソコンのディスプレイの隅に貼られていて、時には手に取り、穴が開きそうなくらい何度も眺めている。
フルネームの記載があるのは名刺だけじゃない。
会社でやり取りしたビジネスメールの末尾にも、雛形の署名内に記されていた事は記憶に新しい。
「…た、たか、ひ……」
「……」
「…っ、やっぱり、今さら恥ずかしいです。
下の名前じゃなきゃダメですか…?」
挑戦してみるも羞恥に飲まれてしまった瀬名は、ふるふると首を横に振った。
「だって、ズルいよ。俺以外の人が、簡単に名前で呼ばれるなんて」
荒んだ口調で吐いた水上の視線がテーブルに落とされた。
まるで子供の言い方だ。
瀬名が常々感じている大人の余裕は、今の彼からは欠如している。
(ズルいって言われても…)
水上の言い分も分からなくはない。
自分も彼から下の名前で呼ばれる事に喜びを感じているし、初めて呼ばれた時は体中が歓喜に満ち溢れた。
ぐんと距離が近付いた気がして、くすぐったくて、大きな幸せを感じた。
だが先程の『俺以外の人が』という点だけは腑に落ちない。
(水上さんだって『薫さん』って、他の女の人を名前で呼んでるのに…)
反論しようと思ったが、彼女を引き合いに出す事に嫌悪を感じた瀬名は押し黙るほかなかった。
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