恋ごころ。〔吉田目線〕

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眺めていた文から視線を外すと、ぼろぼろに擦り切れた兵学書が目に留まる。 書物は基本、一度読んだら頭に入るのですぐ人にあげていたが、これは違う。先生から頂いた大切な書。 手放すことなど到底出来なかった。 これを見ると思い出すのは、松陰先生との思い出。 この兵学書を貰った時、晋作が自分も欲しいと先生にせがんでいたが、たった一冊しかなく、それでも欲しいと晋作は僕に果たし合いまで申し込んだ。 結局、その果たし合いの前に僕がのしてしまったので意味はなかったが、それ程までにこの兵学書が羨ましかったのだろう。 先生は僕に期待してくれた。それと同じくらい僕は先生の期待に応えようとした。 けれど。 先生に下獄の命が出され、江戸に連行されてゆくその様を、僕は影からしか見ることが出来なかった。 全ては一族の為。家族に害が及ばないように、先生の元を離れた。それは致し方無かったが、やはり心残りだった。 期待に応えられず、目の前で先生が連れて行かれるやるせなさ。 この兵学書が、僕の心残りを具現化したものだ。 僕は先生に懺悔する為に、この書を読む。 けれども“あれ”に出会ってからだろうか、この書を読む頻度が減っていったのは。それ程までに僕の空っぽな心には、“あれ”が入り込んだのかもしれない。 もし、もしも先生が今の僕に、前を向きなさいと諭すために“これ”を遣わしたのだとしたら……。 そんなことを考えてもみるが、馬鹿げている。 「吉田先生、少しいいですか?」 後ろの方で声がした。
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