手放したもの。

3/9

2708人が本棚に入れています
本棚に追加
/441ページ
夜が明けた。朝一番の鳥のさえずりがどこかから聞こえてくる。 昨晩はあまり眠れなかった。夜は花街全体が賑やかでそのせいあるけど、夜中ふと目が覚めたら目の前で吉田さんが寝ていてまるで添い寝状態だと気づいてからはぐっすり寝るなんてことは出来なかった。 (寝る前は隅っこにいたんだけどなぁ) 確かに吉田さんの小姓生活の名残で、布団が一組しかなかったこの部屋でどうしてももう一枚借りることが叶わず、吉田さんに布団を譲った。 前は一緒の部屋で寝ることに慣れていたはずなのに、今はやっぱり落ち着かないので、座布団を枕にして背を向けて寝たはずだった。 (う、動けん) がっちりホールドされている、という訳でもなく、私が少しでも動こうものなら起きてしまいそうで身動きが取れなかった。寝てる姿自体が珍しいのもあるけど、普段睡眠をあまり取らないことを知ってるが故にもっと眠っていて欲しかったというのもある。 (腕がしびれてきた) それにしても静かだ。寝息すら聞こえてこない。生きてるんだろうか、そんなことを思い始めてそっと寝顔を覗こうとした時に、その人の目がぱっちり開いた。 「……」 「……」 寝顔を覗こうとしてまたなんやかんや言われるのではないかと思った私は少し身構えた。 (あれ? 寝ぼけてる?) 目はぱっちり開けてるのに、焦点が定まってない。珍しく隙だらけなその人がなんだか可愛いと思えてしまった。 「今失礼なこと考えてたでしょ」 「いいえ! なんも!」 否定しながら即座に布団から出て、正座で座り直した。部屋の外からはひと仕事終えた芸妓さん達が戻ってくる声がした。 「準備をしなよ。もうそろそろ出る」 「今起きたばっかですけど」 「人通りが多くなる前に京を出たい」 まだ四時頃だろうか。外がやっと白み始めたくらいの明るさだ。 「本当にいいんですか?」 「何が?」 「吉田さんは手放したものが大きすぎます。今から戻っても遅くないと思います」 「馬鹿なの? 自分で決めたことだから後悔はしてない。君にどうこう言われる筋合いはない」 「でも……」 (本当にいいの?) 脱藩して、刀も、松陰先生の書物も、大事なもの失って、私はただ何もせず待ってただけで……。 とても歯がゆかった。吉田さんは何もかも手放してまで私を助けてくれたのに、私ときたら今まで吉田さんに何かしてあげられただろうか。きっと何もしてない。だからこれから、吉田さんに何かあった時は私は何かを捨てる覚悟で手助けしようと、そう強く心に決めた。 *** 輪違屋の皆さんから手厚い見送りをされて京を発った。見送りのほとんどは芸妓から吉田さんに向けられたものだったけど、去り際に旦那さんから、私の今までの給金と吉田さんの用心棒の給金をありがたいことに頂いた。長い旅路になるので、手持ちがない私にはとても嬉しかった。 おうのさんは高杉さんの後を追って萩に向かうと思ったけれど、こっちで何か役に立てそうだからと京に残ることに決めたそう。 初めての長旅で、それも吉田さんの実家に向かうということで、ほんの少しだけわくわくしながら私は軽やかに歩みを進めた。 「玄瑞のやつ……」 はずだった。吉田さんの〝あの状態〟になるまでは。 「もういいじゃないですか」 「許さない」 「私は知らなかったんですし、久坂さんもそれを狙って頼んでたんですよ」 「知らないからって頼んでいい事じゃない」 なんでこんなことになったかというと……。 新選組の屯所で、私の日本史の教科書が届けられた。これは恐らく古高さんからだった。どうしてわざわざ私の元に届けたのか、私の居所をどうして知っていたのか話を聞きたくて、京を出る前に桝屋に寄ろうと思って吉田さんにそのことを言うと、なんでそいつを知ってるのかと驚かれた。知っているも何も以前から久坂さんのお使いで訪れていたし、吉田さんと別れた後も会っていたと話すと何故か突然〝あの状態〟に。私も何がなにやら分からずに聞いてみると。 『あいつは長州側の密偵だよ。君が届けていた文は恐らく密書。勘づかれたら危ないと分かっててやらせるなんて、君は知ってたの?』 もちろん知らない。知ってたら引き受けてなかった。そもそも古高さんは私と同じくこの時代にタイムスリップした人間だったから、きっと久坂さんが気を利かせてお使いを頼んだものと思い込んでいた。まさかそんな大事な文を届けていたとは思いもしなかった。 吉田さんは一層不機嫌なまま桝屋まで来ると、朝早くだったのでもちろん店は開いてなかった。それでも誰かいるかと思い戸を叩くと、開店準備はしていたらしく、店の番頭が目をこすりながら出てきた。 「あの、旦那さんはいますか?」 「おりません。昨晩から出かけとります」 「そうですか」 「なんの御用で」 「あ、えっと……」 「用件があるなら言付かりますが」 「いいえ、大丈夫です」 言付けを頼むにも内容が内容なだけに、とてもはばかられる。結局古高さんとは会えずに京を発つことになった。 「そもそも何の用があったの?」 「あのですね、吉田さんは私が未来から来た人間だってのは知ってますよね? あの人も私と同じなんですよ」 「それは古高が未来からきた人間だってこと?」 「はい。それで新選組の屯所にいる時に、古高さんは何故か、未来にあるはずの私の持ち物をわざわざ持ってきたんです」 「なんであいつが持ってるの」 「だからそれが私にも分からないから、どういうことか聞きたくて桝屋に行ったんですけど、結局会えなかったし」 本当に不可解だ。なんで私の日本史の教科書を持っていたのか、それもわざわざ屯所にいる時に持ってきたのか。まるで、私が未来からきた人間だってことを周りにバラしたいという意図を感じさせるくらいに不自然だった。 「君はさ、未来に帰りたいと思ってる?」 「それはもちろんですけど」 「そう」 「もしかしたら古高さんの元にいれば帰る方法分かったかもしれないですね」 「じゃあ京に残る?」 「いいえ。吉田さんに付いていきます」 すると吉田さんがちょっと驚いたような顔をした。今はやっぱり未来に戻ることより、吉田さんのそばにいて何か出来ることがあればしたい。ただそれだけだった。 (あれ?) 気のせいだろうか、吉田さんが〝あの状態〟じゃなくなっていた。これから萩に向かう間、ずーっと不機嫌だったらどうしようかと不安だったがそれは無さそうだった。
/441ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2708人が本棚に入れています
本棚に追加