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「あ、神社だ」
何日歩いたか分からない。そもそも萩とは現代で何県にあたるのかよく分かっていなかった私には途方もなくて、途中からこの旅路が何日かかるか数えるのを諦めた。草履の鼻緒の擦れが痛かったけど、もうすぐ吉田さんの実家に辿り着くと聞いて少しテンションが上がって来たところだった。
「神社がどうしたの?」
「いいえ、何にも。ただ気になっただけです。吉田さんは小さい頃こういう所で遊んでたんですか?」
「……さあね」
「ふーん」
吉田さんは遊ぶというより、木陰で本を読んでるイメージだな。そういえば以前佐助くんから、吉田さんは幼い頃セミの抜け殻集めに熱中していたと聞いたことがあった。なんだか今の姿からは全然想像が出来なくて、あれがセミの抜け殻を? と無理くり頭の中でその姿をひねり出していたら、思わず吹き出していた。
「何?」
「いえ何も」
「着いたよ」
「え! ほんとですか! やったぁー!」
もう足がヒリヒリパンパン。疲れたーとひと仕事終えたように両手を上げて膝をつこうとした瞬間に、私に向かって何かがタックルしてきた。
「あなたが! 姉上ですね!」
「うん? 誰?」
「兄上もおかえりなさい! ずっと待っていたんですよ! 佐助くんからも文をもらって」
「吉田さん、この子誰?」
「……妹」
「えっ、妹!? 妹いたんだ」
驚きの事実だ。妹がいたとは知らなかった。そもそも吉田さんは家族の話なんて当たり前だけど今の今まで全然してなかったから、実家に向かうというだけでも興味津々わくわくな感じだったのに、妹がいたなんて。
(私のこと姉上って言ったよね?)
歳はだいたい佐助くんと同じくらいで十二、十三あたりに見える。吉田さんは顔がめちゃくちゃ整っているけど、やはり妹さんもとても整った顔立ちだ。ほっぺに墨がついてるのが残念だけど。
「栄太郎、戻ってきたのかい」
「久方振りです母上。父上は?」
「萩のお殿様に呼ばれて少し出かけているよ」
「そうですか」
なんだか吉田さん、ちゃんとしている。そりゃ久しぶりの親との再会だから当たり前か。それにしても吉田さんのお母さんは美人だ。やっぱり一家揃って美男美女なんだろうか。
「こちらが小春さん?」
「あ、初めまして! 吉田さんの小姓やらせてもらってる片桐小春です」
「小姓? おやお嫁さんじゃないの?」
「お嫁さん?」
「佐助くんの文ではそのようなことを書いてあったと」
(佐助くん……)
何をどう手紙に書いたのだろう。ありのままを伝えれば小姓が嫁には変換されないと思うのだけど。それとも吉田さん家族が勝手にそう解釈してしまったのか。
「あのお母さん、私お嫁じゃないです」
「嫁を娶った覚えはないけど」
「おやまあ、ごめんなさいね。ふさの早とちりだったかしら」
お母さんめっちゃにこにこしてる。私と吉田さんを交互に見てめっちゃにこにこしてる。言葉で勘違いだったと謝ったはずなのに、お母さんの心の中では全然そう思ってないらしい。
「うちはしがない武家の家でね。みすぼらしい家で悪いけど、ゆっくりしていって」
言われてみるともっと立派な門構えなのかと思っていたら、普通の農家の家という感じが意外だった。外からでも見えるくらいに書物がそこら中に山積みにされているのが吉田さんの実家らしいなと思った。
吉田さんは何やらお母さんと大事な話があるらしく、私は妹のふさちゃんに連れられて井戸端に向かった。何日だかわかんないけどずっと歩き続けで、足が砂埃だらけだったのでとりあえず洗った。足の親指の間か擦り切れて痛い。
「手ぬぐい使ってください! 姉上!」
「あの、ごめんね、姉上じゃないんだけど」
「ゆくゆくは姉上になるのでしょ?」
「いや、それは……」
「あの女嫌いの兄上が、女子を連れてくるなんて青天の霹靂だと父上が言っていました」
「まあ、そうだろうねぇ」
「わしの倅が嫁を連れてくるんじゃ! とご近所に言いふらしてました」
「えっ」
(失礼だけど、お父さん早とちりぶっ飛ばして余計なこと言ってくれてんじゃん)
なんだかこれからがなんとも恐ろしくなってきた。変なことになりはしないかと。
「だけど、りつ様は黙ってないだろうなぁ」
「りつ様?」
「福原家のご息女のことです。福原家は代々ご家老をしていて、その由緒正しいお家のりつ様が兄上に熱を上げてるの」
「うーん、つまり良いとこのお嬢様が家の垣根を越えて吉田さんのことが大好きと?」
「そんな感じ! 姉上も気をつけないとあの人に兄上取られちゃうよ」
「いや、だからそんなんじゃ」
「兄上のこと好きじゃないの?」
「……す、好き、だけど」
今は恋人になりたいとかそんなんじゃない。吉田さんは私のために多くを手放してしまったし、今はそれに報いる何かを私はしてあげたい。だからこうして萩まで吉田さんについてきたわけで。そもそも吉田さんはそういうことを望んでいないような気がする。
「ねぇふさちゃん。そもそも福原家のお嬢様がなんで吉田さんのこと知ってるの? いいところのお嬢様なら家から一歩も出ないだろうし、吉田さんと会うこともないよね?」
「それがあの高杉が余計なこと言ったんですよ!」
(うわ、高杉さんこんな少女にまで呼び捨てにされてる)
「高杉が『俺の知り合いに頭が切れてそれはそれは男前な奴がいる』って越後様に言っちゃったんです。あ、越後様っていうのは今の福原家の当主でご家老をしているんです。その話を聞いた越後様がそれをりつ様に話して、興味を持ったりつ様が屋敷を抜け出して兄上を見に行ったんですよ」
「それで一目惚れってやつですか」
「はい」
なんとまあ、吉田さんが女嫌いだと分かってるはずなのに、分かった上でなんで高杉さんは余計なことをするのかね。おうのさんはあの男のどこがいいのやら。
「だけどふさは、今日姉上に会って確信しました! 兄上にはやっぱりこの人だと! 佐助くんの言う通りでした」
「あ! 後で佐助くんのその手紙見せてもらえる?」
「え、それは……恥ずかしいです」
「どうして? 佐助くんの手紙のどこから吉田さんの嫁だという勘違いが生まれたのか知りたいんだけど……あーそういうこと」
手紙は手紙でも、ふさちゃんと佐助くんにとってはラブレターということだ。ここにもちっちゃな恋が生まれていた。
「あ! 父上が帰ってきた!」
駆けていくふさちゃんの先には歩くおじさんの後ろ姿が見えて、きっとその人が吉田さんのお父さんだろう。
足を洗い終わって吉田さん家に戻ると、改めてお父さんを紹介された。吉田さんのお父さんだからどんなイケてるおじ様かと思いきや、やっぱり普通の優しそうなおじさんで、吉田さんの容姿の遺伝子は母親譲りなのだと分かった。
「それで栄太郎、日取りは決まってるのか?」
「日取りってなんの」
「祝言じゃ」
「だからお前さま、小春さんは栄太郎のお嫁じゃないんだよ」
吉田さんのお母さんが何度諭してもお父さんは私のことを嫁だと思いたいらしい。そこまでくるとなにか訳あって嫁であって欲しいのかとさえ思えてくる。
「困ったもんじゃ。栄太郎、お前脱藩したらしいな。よくもまあ、おめおめと帰ってこれたもんだ」
「え!? 栄太郎どういうこと!? 佐助くんの文にはそんなこと書いてなかったよね?」
佐助くんは私のことは知らせても、吉田さんが脱藩したことは知らせてなかったらしい。そんなことを聞けば普通は激怒するだろうなと思いきや、吉田さんの両親は意外と落ち着いて、仕方ないかという感じだった。この両親は息子がしっかりしている分どこか抜けている気がする。
「しかし困ったなぁ。投獄は免れないだろうよ」
「え、投獄!?」
一番驚いたのは私だ。
「そりゃそうじゃ。勝手に脱藩しておめおめ戻ってきたんだから。栄太郎もそのつもりで戻って来たんだろ?」
「そうだけど」
(知らなかった……)
脱藩したら投獄されてしまうのか。知ってたら実家に戻るのを私は止めたのに。でもそれを見越して吉田さんは私に伝えなかったんだろう。そもそも吉田さんは投獄されるために戻ってきたようなものじゃんどういうことなのと聞くと、私がここにいるのが一番安全だからと返ってきた。
「二、三年は出てこれないか」
しょうがないなワハハと吉田父は笑っている。なんだか間の抜けるというか能天気というか。
「今日お殿様に会って来たんだがな、栄太郎が京でよう働いてくれたから恩赦も考えているそうな」
「恩赦って? 特別に免除してくれるんですか?」
「そうじゃ」
なら、特に心配することもないのか。
「だが越後様が、婿養子にならなければそれも無しだと言い始めてな」
越後様ってさっきふさちゃんが話してくれた、りつ様のお父さんだ。
「婿養子なんぞとんでもないから、栄太郎はすでに嫁を娶る予定だと伝えたんだ。だがその場にいた、ほれあの晋作くんだったか? そいつがそんなわけねぇって言ってくれるもんで、どういうことなんだと越後様がお怒りになってしまったんだよ」
「じゃあ結局吉田さんは?」
「投獄だろうて」
(おーい……)
高杉さんまたまた余計なことしてくれて。
あの人は馬鹿なのかわざとなのかよく分からない。多分前者だろうけど、嘘でもいいから話を合わせてくれてたら吉田さんが投獄されることも無かったのに。
投獄されることが決まっている当の本人は興味なさげに外なんか眺めているし。
「あの、何か免れる術はないんですか?」
「そりゃ越後様の婿養子になるしかないな」
「じゃあ吉田さん婿養子に──」
「嫌だね」
「ですよね」
「そんな小難しい話は後にして、とりあえず夕餉にしましょう」
終わりの見えないこの話を遮ったのは吉田さんのお母さんだった。夕餉の支度を始めたので、私もつられて動かなければと無意識に体が動き出す。だけど、今日は疲れてるだろうから座って待っててと押し戻された。吉田さんも久しぶりのおふくろの味、家族団欒なのか珍しく膳が用意されるのを大人しく待っていた。
出されたご飯はとても美味しい。美味しいけれど、吉田さんが投獄されるという事を知ってしまったので、お腹が空いているはずなのに喉につかえて、なかなか箸が進まなかった。
その一方で吉田さんの両親は、息子が投獄されるというのにのんびり食べる余裕があって、肝が座っているというかどこか他人事というか。
(久しぶりの再会だとしてもちょっと緊張感がない気がする)
「あ、だし巻き玉子」
吉田さんのお母さんお手製だし巻き玉子だ。一口頬張るとそれはとてもとても美味しかった。
「あれ? なんで美味しいの?」
吉田さんの味覚音痴はこの家の味からだと勝手に思い込んでいた私は、美味しいだし巻き玉子を食べて拍子抜けした。吉田さんのお膳をよく見ると、だし巻き玉子が乗っていなかった。
「吉田さん、だし巻き玉子食べないんですか?」
「食べるわけないでしょ」
「えー! びっくり!」
「困ったものでしょ。栄太郎は七つの時から一切食べなくなっちゃったのよ」
「七つの時に何かあったんですか?」
「さあ、なんだろうねぇ。私らにもさっぱり分からない。あ! 佐助くんの文に書いてあったねぇ、小春さんのだし巻き玉子はよく食べるって。今度作ってもらおうかしら」
「姉上のだし巻き玉子食べてみたい!」
「……やめといた方がいいですよ」
私に卵を握らせちゃならないと伝えると、お母さんとふさちゃん揃って首を横に傾げていた。自分でも何がどう間違ってあんなまっずいだし巻き玉子ができるのか分からないから、触らないに越したことはないのだ。
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