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夕餉を食べた後は、吉田さんが久しぶりの帰省ということで話が尽きなかった。ほとんど一方的にお父さんお母さんが話を聞き出していたようなものだったけど、これでまた投獄されてしまうとなったら、ろくに話も出来なくなるだろうからいっぱい話したいんだと思う。
吉田さんは途中からはうんざりしていたみたいで、やっと解放されて布団に入れたのは夜が更けた頃だった。何故か私は吉田さんと同じ部屋で、布団が二組並べて敷いてあったのには何か悪意が感じられたけど、私としてはもう慣れっこなのでどうってことはなかった。
布団に入ったはいいもののなかなか眠れなかった。不安だったからだ。明日にでも吉田さんは萩のお殿様に会ってくる。もしかしたらそのまま帰ってこない。二年三年は投獄されて出てこれないかもしれない。それまでの間、私は待っていられるだろうか。未来に帰りたい気持ちはあるけど、吉田さんには恩がある。
(結局自分のことばかりだ……)
吉田さんの身を案じていたはずなのに、これからの自分のことが心配になってくる。この時代での投獄や、いつ出てこられるのか、吉田さん達はある程度目処がついているのかもしれないけど、何も知らない私にとっては知らないが故にとても不安になる。
吉田さんは僅かな行灯の明かりを頼りに書物を読んでいて、訊ねずにはいられなかった私は起き上がった。
「吉田さんは投獄されるかもしれないのに怖くないんですか?」
「どうしたの? 寝ないの?」
「質問に答えてください」
「脱藩した時点で投獄されるのは分かってた。分かっててこっちに帰って来た。腹が決まっていれば怖いとかは関係ない」
「じゃあ帰らなければよかったのに」
「そうはいかないよ。京にいたところで肩身が狭かっただろうし、こっちに来れば僕は投獄されても、僕の両親に君の面倒を見てもらえるから安心は出来る」
この人はずるい。どうしてそこまで私のために自分を犠牲にするのか。吉田さんってこういう人だったっけ? と以前とは別人のように思えてくる。
「私は小さい人間だ……」
「どうしたの急に」
「吉田さんが投獄されるかもしれないのに、投獄されたら私はこれからどうしたらいいのかってそればかり不安で、自分のことばっかりで……」
「不安だったの?」
「そりゃ不安です。私にとっての二年三年はとてつもなく長くて、その分未来に帰るのが遅れてしまうんじゃないかって……」
「僕のことは待たなくてもいいんじゃないの? 帰ることが出来るならすぐにでも帰ればいいし」
「それは無理です。吉田さんが投獄されたまま一人のうのうと戻ることは出来ません」
「ハハッ」
「なんで笑うんですか!」
普段滅多に笑わないのにこういう真面目な時に限って笑うのは卑怯だ。
「君はさ、僕が投獄されたら自分のことよりも僕を優先して未来に帰るつもりはないってことでしょ? それだけでも小さい人間だとは思わないよ」
「あ……」
言われて気づいた。自分のことばかりだと思っていたけど、無意識に吉田さんのことをちゃんと考えていた。
「それに投獄されても二年とかからずにそれより前に恩赦で出てこられるよ。心配することはない」
なんだろう、確かじゃないのに吉田さんに言われるととても安心する。安心したからなのか、ふと気になったことを聞いてみる。
「……婿養子になる選択肢はないんですか?」
「婿養子? 馬鹿馬鹿しいね」
「でも、ほら、りつ様には会ったことはあるんですか?」
「…………無いね」
(あ、忘れてるんだ)
今の変な間は心当たりがあるかどうか思い出して結局思い出せなかった間だ。
「あの狸親父が何と言おうとも、僕は婿養子になってまで牢につながれるのを逃れたいとは思わないね」
そうだ、吉田さんはそういう人だった。自分の何かを譲ってまで保身に走るような人じゃない。
「……じゃあもし、吉田さんが嫁を娶っていたら? お殿様は吉田さんの投獄のことは初めから免除にするつもりだったんですよね? だけど越後様が勝手に婿養子の条件出してきただけであって、すでに吉田さんがお嫁さんを娶っていたら丸く収まりますよね?」
「僕に嫁を娶れって言うの? そんな都合よく話が進むわけない」
「私がなると言ったら?」
「は?」
「形だけです! ほ、本当になるとは言ってません……」
自分でもなんでこんなことを言い出したかは分からないし、とても恥ずかしい。だけど吉田さんがそれで投獄を免れるならそれでも構わないと思っている。
「君は馬鹿だね」
「分かってます……」
「本当に馬鹿だ。形だけでも君を娶ると思ってるの? 僕はそんな腑抜けた男じゃない。形だけでもなんて、その場しのぎな無責任なことはしないよ」
「すいません……」
ちょっとした提案のつもりで言ったのに、逆に怒られてしまった。良い案だと思ったんだけど。
「それに君はいずれ未来に帰る。それを分かっていながら娶るなんていうことは出来ない」
「…………え?」
(つまり、吉田さんは本気でお嫁さんにしようと考えてたということ? え? 違う? 今そういう風に聞こえたんだけど)
その言葉の意味を理解し始めると共に、自分の顔が真っ赤になっていくのがよーく分かる。そしてとても気恥ずかしい。
「どうしたの? 顔真っ赤だけど」
(吉田さん全く無自覚!)
「え、いえっ、あの、寝ます」
「あ、そう」
私のただの勘違い、気のせいでありますようにと願いながら布団に入ったけど、胸のドキドキがすぐに治まることは無かった。
***
(結局寝れなかった)
そして寝坊。日はもうすでに高いところまで昇ってしまったようだ。身支度を済ませて部屋を出ると、吉田さんのお母さんとふさちゃんだけだった。
「吉田さんは?」
「もう登城しましたよ」
「あーやっちゃったー」
せめてお見送りはちゃんとしようと思っていたのに、昨晩の吉田さんが変なこと言うから。
「大丈夫。このまま投獄されたとしても、週に一度は差し入れを持っていくことが出来るから全く会えないわけではないのよ」
「よかった……」
「暫くは会えないだろうからと、出て行く前に小春さんの寝顔を見納めしていましたよ」
「えっ!」
「あ、今のは内緒よ。見られていたことを知られたら栄太郎に怒られちゃうから」
お母さん茶目っ気たっぷりだ。吉田さんの親とは思えないくらいだけど、逆に親がこんな感じだとあんなに冷静沈着な息子になってしまうのは分からなくもない。
ふさちゃんは縁側で山積みにされた書物に囲まれて音読している。だいぶ遅くなってしまった朝餉を頂きながらそれを微笑ましく眺めていると、お母さんが私の隣に腰を下ろした。
「それにしても栄太郎はまだ初恋を引きずってるのかと思ったんだけど、良かったわぁ」
「初恋?」
初耳だ。そんな話聞いたこともなかった。
「あの時栄太郎は七つだったかな? ほら近くに神社があったでしょ? 小さい頃よくそこで書物ばっかり読んでて、そこに小春さんくらいの歳かしら? 聞いた話だからよく分からないんだけど、そのくらいの歳のお姉さんと遊んでたって聞いたのよ」
吉田さんにしてみればだいぶ年上だ。お母さんによると、そのお姉さんが吉田さんの初恋の相手らしい。
「栄太郎も結構懐いていたんじゃないかな。次の日にも遊ぶ約束をしていたのに、ある日突然そのお姉さんが来なくなっちゃったのよ。栄太郎は必ず来るって信じていてね、雨の日でもどんな日でも毎日神社に行って待ってたんだけど結局来なかったみたい」
「もしかしてそれが原因で女嫌いになったんですか?」
「うーん、まあそれも原因のひとつかもね」
そうニコニコ笑うお母さんでも吉田さんの女嫌いの原因はよく分からないみたいだ。
「そのお姉さんは今はどこにいるのか分かるんですか?」
「さあね。その時期はちょうど旅芸人の一座が来ていた頃と重なるから、もしかしたらその旅芸人の娘さんだったのかもねぇ」
お母さんは会ったことはなくて近所の人から聞いた話だそうだ。本当のところはよく分からないけど、そのお姉さんが髪も結えることもなく、女の人にしてはだいぶ短い髪型をしているのだけは印象的だったと聞いたらしい。
「今もしその娘さんに会えたらって思ったら、お礼を言いたいねぇ」
「どうしてですか?」
「あのときはふさが生まれたばかりで栄太郎には構ってやれなかったから、私の代わりに遊んでくれてありがとうって言いたいのよ」
(今もしそのお姉さんに会えたとしたら吉田さんはどう思うだろう)
考えたところで仕方の無いことだ。吉田さんの十歳ほど年上というから、もう結婚して子供がいて当たり前の年齢になっている。
だけど、私はただその人が羨ましかった。吉田さんの幼い頃に出会って、今でもこうしてお母さんが昔話として話してくれること。自分が吉田さんともっと前に出会っていたら、と考えたところで絶対に無理だとは分かっていても想像せずにはいられなかった。
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