手放したもの。

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結局吉田さんとは会えずじまいで、なのにりつ様は平然と面会出来て、だけど私は面会できなくて、とそんなことを悶々と一日中考えていた。吉田さんのお母さん達も面会出来ないことはやはり知らなかったみたいでかなり驚いていた。そこへ帰り際に見かけたりつ様の話をすると、やはり眉間に皺を寄せていた。 その日の夜こと。 これから夕餉でも食べようかと炊事場で支度をしていた。お皿を出そうと手に取った時、誰だかよく知らないおじさんが家に駆け込んで来るのが見えた。かなり息を切らしている。 「お、おい!」 どうやら吉田さんのお父さんの知り合い(豆太の飼い主さん)だったみたいで、急な知らせを伝えに来たらしい。対応している様子を見ていたら、お父さんの顔がどんどん青ざめていく。 これはただ事じゃないなと思った私は、井戸に水を汲みに行っていたお母さんを呼び出した。ふさちゃんも何事だろうと顔を出す。 「小春さん、何かあったのかい?」 「よく分かりませんが……」 要件を伝え終わったおじさんが帰っていくと、お父さんはこれから出かけてくるから支度をしてくれとお母さんに頼んでいた。何があったのか聞くのもなんだか躊躇われて私は何も言い出せずにいると、代わりにお母さんが訊ねた。 「お前さんどうしたの? 何かあったの?」 「──栄太郎が倒れた」 (え?) 「どうやら毒を盛られたらしい。意識がないそうだ。越後様の屋敷に運ばれたらしいからこれから行ってくる」 「ど、毒って、栄太郎が死にそうだってこと!? 容態は何か言ってなかったの?!」 「まだ詳しいことは分からない。だからこれから様子を見てくる。早く支度を頼む」 ぱりんと、何かが割れる音がした。 手に持っていたお皿が土間に落ちて割れていた。 「──あ、ごめんなさい! 割っちゃった……」 取り乱していたお母さんがお皿が割れる音で我に返ったのが分かった。だけどそんなお母さんとは対称に、私の頭の中は真っ白だった。この場にいる誰もが落ち着かない様子で、お父さんも慌てる様子は見せずとも表情が険しい。 容態もどんな毒が盛られたかも分からない。命に関わるのかすら分からない。様子を見に行ったお父さんをとりあえず三人で待つことにした。 *** 待つと言ってもやはり落ち着かなかった。夜が更けた頃になってもお父さんが帰ってくる気配がなかったから尚更だった。 (もし、死んだりなんかしたら……) いや、最悪のことを考えるのはやめよう。 だけど思わず握りしめる手に力がこもってしまう。うっ血する程に。 「小春さん大丈夫よ。栄太郎のことだからそう簡単に死にはしないでしょう」 「それは分かってるんですけど……」 「私は聞いた時驚いて取り乱してしまったけど、小春さんは大した人ね。泣きもせず騒ぎもせず。本当は今すぐにでも駆けつけたいだろうに」 本当は今すぐにでも吉田さんのところへ行きたい。だけど越後様の屋敷ということもあって簡単に会いに行けるわけじゃないから、ここで待っているしかなくて、ただただ不安で不安で今にも泣きそうで。 だけど泣いたところで吉田さんの状況が変わるとは思えなかったから。今はお父さんを待つしかない。 「ところで、どうして吉田さんは越後様のお屋敷に連れていかれたんですか?」 「きっと婿養子にと考えていたからね。普通だったら獄に医者を呼び寄せて治療するんだけど」 なんだかどさくさに紛れて狸親父の根城に連れ込まれてしまった気がする。きっとりつ様が付きっきりで看病してるんじゃないだろうか……。 さらに嫌な想像に囚われそうになっていた所へ、首を長くして待っていたお父さんが帰ってきた。お母さんがそそくさと盥に水を張って持って行く。 「今戻った」 「おかえり。栄太郎の様子はどうだった?」 「幸い処置が早くて一命は取り留めたよ。ただ、まだ意識は戻りそうにないそうだ」 「そうですか」 玄関先で足を洗うお父さんがこう切り出した。 「少しおかしな話を聞いたんだが……」 (おかしな話?) 「栄太郎が毒を仕込まれたのが、うちから持っていった差し入れだと言われたよ」 「え!?」 驚いて声を上げたのは私だった。 差し入れというと昼間に持っていったものだ。面会は叶わなかったから門番の人に渡したもの。中身はいつものだし巻き玉子と、お母さんが作ってくれたおにぎりやおかずなど食べる物が入っていた。 「小春さんまさか──」 「私は怪しいものなんて入れてないですよ! それに直接吉田さんには渡せなくて門番の人にお願いしたんです!」 「じゃあその門番の人が入れたっていうの?」 状況的にはそれが一番有り得る。 「それがな、門番の人も毒物は入れてないと言い張っていたそうだ。だから昼間差し入れを持ってきた小春さんが怪しいと。だがどうにも毒を盛って利があるとは思えないからそれは違うと進言したんだけどな、どうにも上の役人は納得しなかった」 「それってみんなで口裏合わせとかされてませんか?」 「うん、わしも怪しいと思う。大方あの狸親父が裏で糸引いてるんじゃなかろうか」 もともと吉田さんを婿養子にと考えていたから、この件で吉田さんは越後様の屋敷に連れていかれたし、何かにつけてりつ様との婚姻を進めようとしているのかもしれない。毒を盛ったのも私に擦りつければ邪魔者はいなくなるし。 「あの、吉田さんにはいつ会えますか?」 「当分無理じゃな。もともと投獄されていた身の上だからこちらに帰ってくることはまず無い。越後様の屋敷で預かってもらっているが、簡単に出入り出来るわけじゃないから諦めた方がいいな」 わしでさえ面会するのは厳しいくらいだ、と若干苦笑いでお父さんは言った。そうなると会うのはしばらく無理そうになってしまった。ただでさえ出獄の目処がたっていなかったのもあるし、そんな中で毒物騒動が起きてしまったからますます遠のいてしまった気がする。 (これからどうすればいいんだろう……)
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