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高杉さんの仕事ぶりはやはり目を見張るものがあって、最後に会ってから一日と経っていなかった。今日はその口利きで吉田さんに会うことになっている。表向きには高杉さんの小間使いとしての同行で。越後様の屋敷に向かう道中に、ずっと気になってたことを聞いてみた。
「吉田さんに毒を盛った犯人は今調べてる最中ですか?」
「ああ。お前なんか知らないか? お前が持っていった差し入れに毒が盛られたらしいんだけどよ、栄太郎はもともとお前の差し入れ以外は口に入れなかったらしくてな、だからそれを知ってるやつの犯行じゃないかってところまでは調べがついてる」
最初に私が疑われた時は、あまりにも安直すぎると高杉さんは上のお役人さん達を白い目で見てたそうだ。もちろんそれは有り得ないと抗議してくれたらしい。そして一番怪しいのが、私が差し入れを預けた門番だった。
「門番の人が犯人じゃないんですか?」
「いや、身辺を調べたが違うみたいなんだよな。ただ、何かは隠してる」
「なんだろう……」
「差し入れを持って行った日、何かおかしなことはなかったか?」
「うーん……あ!」
「なんだよ」
「あの日、私は面会出来なかったんですよ!」
「それはその二日前に面会禁止になったからだろ」
「だからおかしいんですよ。あの日、私は面会出来なかったのに、りつ様は面会出来てた」
「りつさんが面会してたのか?」
「知らないんですか?」
「いや何も聞かされてない。怪しいな……」
高杉さんがこのことを知らないということは、りつ様が吉田さんの面会をしていたという事実をどこかで口止めしていたということになる。吉田さんが毒を盛られた今、一番の容疑者はりつ様になるはずなのに。
「いや、あのな、最近どうも福原家の周りで怪しい人物が出入りしているみたいでな」
「怪しい人物?」
「ほら、栄太郎がもらった差し入れに媚薬が入っていた件。それを栄太郎の親父さんに聞いて俺も少し調べたんだが、最近福原家に薬種問屋の商人が出入りしているみたいでよ」
(薬種問屋……ということは)
「りつ様が薬を買っていたということですか?」
「まあ、りつさんとは限らず福原家の人間が薬を買っていたことには間違いないよな」
(怪しい……ますます怪しい)
これはもう黒寄りのグレーといったところか。高杉さんはこれから越後様の屋敷に向かうにあたって、そこで出入りしている薬種問屋の商人についでで話を聞けたらいいと思っているみたいだった。
(吉田さん大丈夫かな……)
記憶を取り戻すきっかけになればいいと、だし巻き玉子を作ってきた。きっとすぐに記憶が戻る。そう信じて。
越後様のお屋敷はそれはそれは広かった。一応吉田さんは罪人ということで、警備にあたっているお役人が何人かいたけれど、それ以外の人が簡単に出入りできるような感じではない。薬種問屋の人に話を聞けるかどうか高杉さんは期待していたみたいだけど、それは少し難しいみたいだ。
屋敷に上がり吉田さんがいる部屋に向かうと、ちょうどその障子戸から誰かが出てくるのか見えた。よく見るとりつ様だ。
「りつさん、何をしていたのですか。見張りのお役人もいない様ですが」
高杉さんは顔見知りなようで、りつ様に話しかけた。私は顔がバレないようにうつむく。
「栄太郎さんに食事を運んでいたのです」
「もうおやめになられた方がよいですよ。栄太郎は罪人の身でもありますし、あなたの命がいつ無くなってもおかしくないですからね」
高杉さんが真面目に、それもまともに話してる! と驚きつつも、りつ様を窺うと少しだけバツが悪そうな顔をしている。
「栄太郎さんは、記憶を失くして混乱しているだけです。きっと心を尽くせば伝わるはずです」
「そんな簡単にはいかないのに……」
ハッと気づいて口を押えた。つい心の声が漏れてしまったらしい。
「あなたは……小春さん? なぜここにいるのです? ここは関係ない方は入れないのですよ。今すぐお役人に──!」
「りつさん、貴方もこいつ同様に関係ないはずですよ。告げ口するのであればどうぞ。俺もそれ相応のことはしますが」
どうやらりつ様であっても、罪人の吉田さんには簡単に会えないらしかった。けれど通常部屋の前に監視のお役人がついているはずなのに、今この場にいないということは、お役人を丸め込んでの行動といえる。もちろんこの事が外に漏れれば外聞はよろしくない。
「お可哀想でなりません」
「はい?」
苦しまぎれに呟かれたそれが、どうしても受け流すことが出来ずに反応してしまった。
「栄太郎さんは誰のせいでこうなったと思っているのですか? あの時貴女に忠告したはずです。それなのにこんな事になって……全部貴女のせいです! それなのにわざわざ会いに来るなんて、図々しいにも程があります!」
「なんですかそれ!」
「落ち着け小春」
「だけど高杉さん! 私は、平凡でなんの取り柄もないけど吉田さんに尽くしてきたつもりです! なのに図々しいだなんて! それに私は手に入れたいものの為に媚薬を混ぜ込んだりするような、小癪な真似をしたりしません! 今回だって毒を盛ったのはあなたじゃないんですか!?」
「私がそんなこと何時したというのですか!」
「そんなのこないだ差し入れを持ってきた時に──」
「二人ともやめろ! 小春、お前らしくないぞ」
確かに気が急いているのか、りつ様に言われたからなのか、それとも単なる寝不足だからなのか、いつもならスルーしていたところを、わざわざ突っかかるようなとこじゃなかった。
荒い息を落ち着けるために深呼吸した。
「……すみませんでした」
「さっきのお言葉は聞かなかったことにします。高杉さん、彼女がここに来たことは父に報告させてもらいますからね」
「はいはい、勝手にしてくれや。何でもかんでも親に頼ればいいと思うなよ? 自分のことを棚に上げているのを忘れるな」
普段の口調に戻っている高杉さんは暗に、お前がしゃしゃり出てくるなと言っている。
「行くぞ小春」
りつ様と出くわす可能性がないことはなかったけど、やはりこうして会ってしまったのは良くなかった。高杉さんもいつになく顔が固くなってしまった。
(ああ、頭痛い……)
これから吉田さんと会うというのに、もうヘトヘトだった。その時。
「ねぇ五月蝿いんだけど」
その声は久しぶりに聞くものだった。だけどその声音は明らかに冷たい。
「悪いな栄太郎」
(吉田さん……)
障子戸が開いていたらしく、布団から起き上がっていた吉田さんに今までのやり取りを全部見られていた。高杉さんは吉田さんのもとへ近づくけれど、私の足はなかなか動かない。
「小春どうした?」
毒を盛られて倒れたというのに、全然変わらなそうでとりあえず安心した。見た感じで言えば単純に〝あの状態〟だ。だけどその視線は以前のものとは違って、私は吉田さんにとって知らない人間だということを物語っていた。
「ねぇ、晋作。君の女を連れてくるのは君の勝手だと思うけど、目障りなんだけど」
(女……)
「栄太郎何言ってんだよ。お前の小姓やってた小春だ。覚えてないか?」
「知らないよ」
「まあ、仕方ねぇよな……」
覚えてないものは仕方ない。だけど、心が折れそうになる。足の力がどんどん抜けていくような気がして、誤魔化すように高杉さんの隣に座った。
「あの、吉田さんが好きだっただし巻き玉子作ってきました。食べますか?」
「……」
(無視ですか……)
お互いに沈黙。高杉さんも沈黙。とても気まずい。だけどこんなことは想定の範囲内だった。
「お茶でも淹れますか?」
「いらない。目障りだから、消えて」
こんなことでめげてはいられないと、少しばかり食い下がってみることにした。
「少しくらいならどうです?」
「……」
「ふさちゃんとお母さん心配していましたよ。吉田さんがどんな様子か気になっていたみたいです」
「……」
「佐助くんもこのこと知ったらすっ飛んで来るんじゃないかな」
「……」
「とりあえず元気そうで、なんだか、安心しました……」
(あれ、おかしいな、目の前が滲んでくる)
一方通行のこの会話がだんだん惨めに思えてきて、気づけば泣きそうになっていた。あれだけ心配して、でもなんとか気丈に振る舞おうとしていたのに、今ここでその緊張の糸が切れそうになっていた。
けれど無情にも吉田さんの言葉は冷たかった。
「泣けばなんでも思い通りになると思ってるんでしょ。そういう小賢しい女は嫌いだね。さっきの女といい、どういうことなの晋作」
「本当に覚えてないか? お前こいつの為に脱藩までしたんだぞ。お前にとってはそれだけこいつの存在は大事なものじゃなかったのか?」
「知らないね。馬鹿馬鹿しい。僕がたかだか女の為に脱藩までするわけないでしょ。寝ぼけてないでさっさとその女連れて出ていってよ」
「だからよ──」
「君、女癖が酷くなったんじゃない? 前は芸妓だなんだ言ってたくせに、こんな平凡な女まで連れ歩く趣味してたの?」
「お前ふざけんなよ!! 俺はあれだけ小春に執着するのは反対してたのによ、今さら手のひら返しでそれはねぇだろ!」
「だから一体何の話」
「知らねぇとは言わせねぇぞ!」
高杉さんは病人でもある吉田さんの襟首を乱暴に掴んで怒鳴り出した。それでも表情をまったく変えない吉田さん。これ以上高杉さんが突っかかったところで、記憶を失くしているのだから何も進展はしない。思い出す気配がないのだから。
「高杉さん今日は帰りましょう」
「お前それでいいのかよ!」
「吉田さんの無事が確かめられればそれでいいです」
「だけど!」
「いいんです!!」
(お願いだから気づいて)
こうやって高杉さんが必死に説得する度に、この場に留まり続けると泣き出しそうになってしまう。存在を知られてないという事実がどんなに残酷か身に染みて分かった。
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