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切り札だっただし巻き玉子も置いていったところで吉田さんが食べるとは思えなかった。だから大人しく持ち帰ることにして、それを抱えて立ち上がった時だった。
「おい大丈夫か?」
足がもつれて転びそうになった。咄嗟に隣にいた高杉さんに寄りかかる。
「大丈夫です。少し頭が痛くて……」
「栄太郎が心配で寝てないからだろ。無理すんな」
(少しふらふらする……)
ほんの少しの希望を持って吉田さんを窺うとこっちを見もしないで、いつの間にか取り出した書物に没頭している。それがまた辛くて、一層足の力が抜けていく。
高杉さんの腕を借りながら部屋から出て少し行くと、監視のお役人がやっと戻ってきたのが見えた。
「これは高杉殿」
「おい、お役目そっちのけでどこいってやがったんだ? 懐が妙に温かくなったんじゃねぇか?」
「そ、それは……」
虫の居所が悪い高杉さんの言葉に、お役人の顔が一気に引きつった。
「まあいい。それより頼みがあるんだが、医者か薬師はいねぇか? こいつが具合悪いんだ。今すぐ診せたいんだが、それぐらいの融通は利くよなぁ?」
本気でキレている訳じゃないけど、高杉さんの顔が怖い。お役人に対して、りつ様からの袖の下のことを黙っている代わりに頼みを聞けと脅している。その意図が分かったのか、お役人が口を開いた。
「い、医者は不在ですが、代わりに薬種問屋の者がおります。その者にしか頼めませんが、医者を呼び寄せましょうか?」
「いや、いい。そこまでの足労はかけたくない。そいつに頼むとしよう」
見上げると高杉さんの口角が片方だけわずかに上がった気がした。そしてお役人が立ち去った後に訊ねてみた。
「便乗しましたよね」
「悪いか?」
「悪かないですけど」
「これでもお前のことを心配してるんだぜ。薬種問屋のことはついでだついで」
その言い方にイラッとしたけれど理由が理由なだけに言いたいことを飲み込んだ。吉田さんに盛ったその毒を福原家に卸したかもしれない薬種問屋。素直に話してくれるかは分からないけど会わないよりはマシだった。それが本当の目的で、表面上は私の診察だ。商人といっても薬を扱う人なので、多少の処方箋くらいは出してくれるはず。
使用人に案内されて吉田さんがいた離れから母屋の方にやって来た。表向き罪人を預かっているからなのか、母屋と離れの距離が意外とあって移動するのが少し辛かった。こちらですと、ある部屋に通されたけれどまだ商人は来ていないらしく、ここで待っていろということだった。
「具合悪い上にあんなことになっちまって、何だか悪いな」
「悪いと思ってるなら寄り道せずに家に帰してくださいよ」
「帰りはおんぶしてやっから気にすんな」
「嫌ですよ! 気持ち悪い」
「それはねぇだろ。俺がおんぶしてやるって言ってるんだぞ」
そうしてあえて普段通りに冗談を言う高杉さんの心遣いが嬉しかった。
「するかどうかは別として、おんぶなんかしたら、ふさちゃんの悪口がまた一つ増えますよ」
「あれは、そうだな、どうしようも出来ねぇ」
それはそうだ。少女の悪口に対抗して罵声や暴力を振るったとしても男としての自尊心が許さないだろうよ。そう心の中で呟いた時だった。
「来たな」
高杉さんのその声とほぼ同時に障子がさっと開けられた。
「あっ!」
そう声を上げたのは間違いなく私だった。ただ向こうも驚いていいはずなのに、悠然と微笑をたたえている。
「小春の知り合いか?」
「えっと、その──」
言い終わる前に言葉を被せてきた。
「見間違い、だと思いますけどねぇ。そうですよね? 似ている人に前に会ったことがあるとか」
「え? ああ、はいそうです」
つい言われるがまま答えてしまった。表情には出さないようにしつつも、心の中では呆然としていた。だけどどう見てもあの人に似ている。いや、あの人に違いないと思っていたのにそういう反応をされたらそう応えるしかなかった。その不気味さに変な汗をかきはじめてるのが自分でも分かった。
「どうも薬種問屋長崎屋の長次といいます」
堂々と頭を下げるその人からは一瞬の隙も見られなかった。
***
帰る道すがら、当然高杉さんの背におぶさっているわけでもなくゆっくり隣を歩いてると、やはり私と同様にあの商人に疑いを向けていたらしい。
「お前、知り合いじゃなかったのか?」
「知り合いに似てただけです」
「まあ、そりゃそうだよな。ここが京なら知り合いがいたとしてもおかしくはないが、萩には来て月日が浅い。知り合いがいるとは思えねぇ」
私の手には薬袋が収まっていた。症状を聞いた商人が処方してくれたものだ。まさかと思って最後まで大人しく様子を見ていたら、やっぱり何にもなく終わってしまった。肝心の毒薬についても、高杉さんが聞き出せそうにないほど隙がなかった。
「そんじゃ、俺はここで。家まで送ってやりたいが、五月蝿いちびに捕まると厄介だから堪忍しろ」
気づくと吉田さんの実家近くの神社の鳥居の前だった。返事をする間もなくそそくさと行ってしまった高杉さんの後ろ姿に長い間頭を下げた。今日吉田さんに会えたのは高杉さんのおかげだからだ。
(成果は何も無かったけど……)
むしろ奪い取られたような気分だ。
朝、家を出る前に吉田さんのお母さんとふさちゃんからは期待の眼差しを受けて出たけど、結局何にも出来なかった自分がすごく恥ずかしくて惨めに思えた。
高杉さんとここで別れてある意味正解だった。あのまま家まで帰っていたらどんな表情をして話せばいいか分からなかった。
重い足は当然、家の方向とは違う方に向かい、気づくと鳥居をくぐって境内に入っていた。社の賽銭箱が見えてくると、誰かがお参りしている後ろ姿が見えた。
(誰かいる)
そしてその人物が振り返り顔が見えた時、そこにいた。
〝薬種問屋長崎屋の長次〟が。
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