蝉の抜け殻。

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吉田さんの家には手紙を書いた。まさか未来で会うはずの私と顔を出して挨拶する訳にもいかないので、こっそり置いて帰ろうとすると、ばったりお母さんに出くわしてしまい声をかけられた。 「どちら様?」 「あっ、えーっと」 「うちに用ですか?」 「伝言を頼まれました」 「伝言?」 「栄太郎くんが、お母さんは妹のことで手一杯だと思うからと気にして今晩は近所のお姉さんのところでお世話になるそうです」 「近所のお姉さん? 珍しいわねぇ。あの子女嫌いなのに」 「そういうことなので、それでは」 そこから全速力で逃げた。近所のお姉さんからの伝言という体にしとけば、多分大丈夫。詰めが甘いような気もするけど、私だということはバレないはず。 日が完全に沈みかけてきて辺りはほの暗くなってきた。神社の境内で待つ古高さんと吉田さんの姿が見えづらくなるくらいに暗い。二人が待つところへ行くと、二人はなんだか剣呑な雰囲気を醸していた。 「どうしました? 早く行きましょうよ」 「ねぇ小春、このおじさんいないといけないの?」 「うん、おじさんのおかげで部屋を借りられるから」 「おじさんではない」 「おじさんに違いないですよね?」 「お兄さん(・・・・)だ!」 子供がそう認識しているのだからおじさんはおじさんだ。そもそも吉田さんに至っては、わざと言っているような気もする。それほど古高さんが気に食わないらしい。ちなみに私もそれには同感だ。 古高さんが一晩だけ借りたという長屋に着く頃には完全に暗くなっていて、中に入り急いで行灯に火を起こした。部屋の中は小綺麗に整理されていて、物も布団もちゃんと揃っている。食材も古高さんが用意したのかきちんとあった。 「ひと通り用意しといたからな」 「ありがとうございます」 「それじゃあ俺はこれで」 「あれ? 行っちゃうんですか?」 「俺にいて欲しいのか?」 「いや、そういう意味じゃなくて。古高さんが用意したのに、使わずに他のところに行くなんてと思って」 「全部あんたの為に用意しただけだ。他意はない」 (ますます怪しい) 「あとで請求したりしませんよね?」 「そんな姑息な──」 「大丈夫だよ。このおじさんはそんな懐の狭いことはしない立派な人だと思う」 「そう?」 吉田さんが助け舟を出してくれた。子供にこう言われれば万が一請求されることはあるまい。そこまで度量の小さい人でもなさそうだし。 「全く、癪に障る子供だ。まあいい二人で仲良く過ごすといいさ。片桐小春、子供だからって油断するなよ?」 「どういう意味です?」 「そのまんまさ」 言っている意味がちゃんと噛み砕けないまま、古高さんは行ってしまった。しばらく出ていったところを見ていたら、ふと着物の袖が引っ張られ振り返ると、吉田さんが一言「お腹空いた」と子供らしい返事がかえってきた。 待たせるのはまずいと思い、早速調理にかかった。青菜の和え物に、だし巻き玉子、大根のお味噌汁にご飯をテキパキ用意した。だし巻き玉子に至っては、吉田さんに対しては作り慣れているので、つい無意識で作ってしまった。 (だし巻き玉子出さない方がいいよね) 壊滅的なだし巻き玉子を、子供の吉田さんに出してもいいのだろうか。そもそもこの時の吉田さんはすでに味覚音痴なのだろうか。そこからもう分からなかった。 結局出すことはやめて、それ以外のものをお膳に乗せて吉田さんに出した。 「あれ? だし巻き玉子は?」 「え? えっと、失敗しちゃったから」 「いい匂いがした。食べたい」 「お腹壊すからダメだよ」 「だし巻き玉子でお腹こわすのは聞いたことないよ」 「栄太郎くんは聞いたことなくても、私の身の回りでは日常茶飯事だから」 「食べたい」 「ごめんね」 「食べたい」 「うーん……」 しつこく食い下がるので、もうどうにでもなれとやけくそでだし巻き玉子を出すことにした。 「不味かったらすぐに出してね」 そう言いつけてから、二人でご飯を食べ始めた。吉田さんは真っ先にだし巻き玉子に手を出した。その様子を恐る恐る観察していると、咀嚼が進むにつれて眉間にシワが寄っていくのが分かった。 (やっぱりまずいんだ) この時の吉田さんはまだ味覚音痴じゃなかった。 「出してもいいんだよ」 「……ううん、おいしい」 そう言いながら涙目になっている。そうさせたのは言わずもがな私だから、なおさら可哀想になってくる。それでも諦めない吉田さんは結局ごっくんと飲み込んでしまった。 これが大人の吉田さんだったら、いい仕返しになるだろうけど、相手が子供なだけにとても胸が痛む。 「ごめんね、まずかったよね」 「ううん」 「もっとちゃんと作れるようにするからね」 「僕はこれがいい。だって得意料理なんでしょ? 手際がすごくよかった」 「う、うん」 (得意料理ではないけど……) 誰かさんのおかげで、得意料理に昇格してしまっただけだけど。それもあなたのおかげで、とは言えず。味覚音痴じゃなかった吉田さんは、だし巻き玉子含めて全て完食した。そして私が食べずに残していただし巻き玉子も、平らげてしまった。 (大丈夫かな、私のせいで味覚音痴になったりしないよね) その後、後片付けが終わる頃には吉田さんが布団を敷いていてくれていた。小さいながらによく動いてくれる。 「ありがとう、布団もう一つ敷こうか」 「いる?」 「いると思うけど」 「この部屋にもう一組敷くのは無理があると思う」 言われてみればそうだった。そこまで広い部屋じゃない。せいぜい一人分の布団が敷けるくらいの広さだ。だけど少し詰めればもう一つ敷けるような気もする。 「僕は小さいから一緒の布団でも平気だよ」 「それならいいけど」 (あれ? なんだか吉田さんのペースに巻き込まれてる?) そんなような気がしたが、いやいやそんなことはありえないと考えを追い出した。子供ながらに寂しくて一緒に寝たいだけだろうと思うことにした。 一緒のお布団に入ることになり、行灯の火をふっと吹き消した。吹き消しても真っ暗になることはなく、月明かりのおかげで目が慣れれば不自由しないほどだ。 吉田さんの方を向くと、すでに目を閉じて眠る体勢に入っていた。そんな寝顔を眺めていると、改めて綺麗な顔だなと感心してしまう。 (まつ毛長いなぁ) こうして周りが見る分にはいいのだろうけど、本人にとっては呪われた顔面なのだろう。この綺麗な顔のせいで、変な人に声をかけられているのだから。そう思うと少し可哀想に思えてきたが、大人になった吉田さんはあしらい方も上手くなっていたので心配はいらなそうだ。 私も眠りにつこうと目を閉じた時だった。 「年下だったらよかったのに……」 眠ったと思っていた吉田さんの声が聞こえて、目を閉じたまま固まってしまった。 (どういう意味?) その一言だけでは全てを理解するには無理がある。だけど聞き返す訳にもいかず、そのまま目を閉じていた。すると、私の手に何かが触れた。吉田さんの手だ。その手は私の手をぎゅっと握ってくる。 妹が生まれて母親が恋しいだけなのかなと思うことにしてそのままにすることにした。その時、吉田さんが単純にそうではなく別のことを考えているとは思いもせず、私はそのまま眠ってしまった。
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