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あれほど望んでいたことなのに、ちっとも嬉しくない。まだ帰れない。こんな状態じゃ帰ったところで後悔ばかりが残るからだ。
「まだ帰れません」
「そんなの知ったこっちゃない」
「じゃあなんで手助けしたんですか。吉田さんの記憶が戻る手助けといって私を過去に連れていきましたよね?」
「あんなの戯れに過ぎない。本気で手助けするとでも? そもそも一日そこらで記憶が戻るきっかけになると思うか?」
やはり本音ではそう思っていたんだ。どうして吉田さんの子供時代に連れていったのかと疑問に感じていたけど、つまるところ吉田さんに与える影響が少ないからだ。
「まあ少なからず罪滅ぼしは入っているぞ。俺が唆した毒で、記憶を失ったんだからな」
やっぱり薬種問屋に成りすまして、福原家に接近していたのもその為だったのかと納得がいった。
「私の懐中時計、返してください」
「返してじゃないだろ、くださいだ。今さらいじったところで現代に戻る日付は変えられない」
そう前置きを言われて、懐中時計が私のもとへ投げてよこされた。社の静けさの中に懐中時計が落下する音が大きく響いた。
期待はしていなかったけど、やっぱり日付を変えることは出来ないらしい。
「交換条件だったはずだ。俺のお遣いはちゃんと行ってもらおう」
今となってはそんなのやりたくもない。
目の前のこの人に一発平手でも食らわせてやりたい気分だ。
「この手紙を斎藤一に渡してもらいたい」
そう言って懐から取り出したのは、一枚の封筒だった。
「断ったらどうなります?」
「断らないさ。これは千歳の遺書だからな。これを届けてやらないほどあんたは非道じゃない」
(それを全部分かってて……!)
手紙を届けることも、それを断らないことも全部分かっていて私に吉田さんの過去に行くことを吹っかけたのだと気づいた。古高さんの意図は分かっている。だからそれに抗いたい気持ちはあるのに、その千歳さんの遺書が出てきてしまうとそう簡単には断れなくなってしまう。
「必ず、一週間以内にここを発て」
「もしもそれを破ったら?」
「俺が何をするか分かるだろ? 吉田稔麿にも毒を盛った奴だ。どうなるかぐらい想像はつくだろ」
誰かが犠牲になるかもしれないと、背筋に悪寒が走った。殺すまではいかなくとも、今回の吉田さんみたいに誰かに毒を盛って記憶が失くなる可能性も有り得る。
「……分かりました」
そう答える他なかった。
「飲み込みが早くて助かる」
千歳さんの遺書を受け取り、そのまま古高さんは姿を消した。
古高さんは千歳さんに恩があると言っていたけど、千歳さんの生まれ変わりである私に対してはとても冷酷だ。魂は同じだとしてもやはり違うらしい。
遠くでカラスの鳴く声が聞こえる。今は夕方。吉田さんに会って高杉さんと別れた後の時間に戻っている。日が暮れ始めていて、間もなく辺りは暗くなり始めるから、その前に帰らなければならなかった。
吉田さんの実家に着くと、敷地のすぐ外でお母さんとふさちゃんが心配そうに待っていた。
「姉上! 大丈夫?」
駆け寄ってくるふさちゃんに大丈夫だとうなづいた。
「その髪の毛はどうしたの?」
「え? えーっと」
「高杉に切られたの?」
「違うよ、自分で切ったの」
ふさちゃんが悲痛な顔になる。どうやら、吉田さんの記憶が戻らなかったからショックで切ってしまったのだと思われたらしい。
「その髪の毛は本当に自分で切ったの?」
お母さんの様子が少しだけぎこちない。
「栄太郎に切られたわけじゃないのよね?」
「大丈夫です、違いますよ」
ほんの少し違和感に感じたお母さんのそのぎこちなさは、吉田さんに髪の毛を切られたかもしれないと心配してのことだと得心した。
ここで話すのもなんだからと家に上がり、吉田さんに会ってきて様子はどうだったか事細かに全部話した。長い時間会ったわけではないので、大したことは話せない。
記憶が戻ってくれることを願っていた二人は、私の話にとても残念そうにうなだれた。
(二人がこうなると分かってたから、帰りづらかったんだけどな……)
とりあえず疲れたので、夕餉はいらないと告げて吉田さんの部屋に引きこもった。途端、膝から崩れ落ちた。色々なことが起こり、頭がもうぐっちゃぐちゃだった。
私にはもう時間がないことが、何よりも辛かった。
(そうだ、日付!)
もらった懐中時計を取り出して、蓋を開けてみる。だけど何の変哲もないただの時計で、日付も書いていない。少しつまみをいじってみると──
「一八六四、六月四日……」
時計の文字盤に書かれた字が切り替わり、日付が出てきた。そこに書かれていたのは来年の六月四日。今は十月。だとすればまだ半年は時間がある。だけどもし吉田さんの記憶が戻らなかったら……いや、戻ったとしてももう時間がない……。
(何を期待してたんだろ……)
吉田さんの記憶が戻ったところで、私は吉田さんにどうして欲しかったのだろう。吉田さんの妻になりたかった? それとも単純に傍にいたかったから?
(よく分からなくなってしまった……)
吉田さんの文机にふと目がとまった。吉田さんが出て行ってしまってから私も手をつけたことは無かったけど、何気なく文机の引き出しを開けた。
「あっ……」
どうせ書物だろうと思い込んでいたのに、そこには蝉の抜け殻が入っていた。ボロボロに形が崩れかけているものから、今年の抜け殻とも思えるような形がちゃんと残っているものもある。幼い吉田さんからもらった私の蝉の抜け殻も一緒に並べてみた。それを見てると、ずっと会えなかった仲間に会えたような、馬鹿らしいけどそんな風に思えた。
もしかして、もしかしてじゃなくても、吉田さんは毎年こうして蝉の抜け殻を取り出す度に私のことを思い出していてくれてたのだろうか。守られることの無かった約束のために。
たとえ私が小姓をしていた時の記憶がないとしても、幼い頃に出会った〝小春〟の記憶はちゃんとあるような気がして、不安で入り乱れる私の心を暖かく照らしてくれた。
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