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次の日、何事もなかったかのように洗濯をしていた。もう手馴れたもので、意識がそっちのけでも手だけはサクサク動いてくれる。ひと通り洗い終えて立ち上がると、遠くでお父さんらしき人の足音が聞こえるのが分かった。
(何かあったかな)
その慌てている様子が感じられて少し不安に思っていると、ふさちゃんがひょこっと顔をだして私も来いと促した。
吉田さんのお父さんとお母さんは深刻な顔で話をしていて、私に気づいた途端さらに顔が強ばった。大方自分のことを話しているのだろうと察しがつく。
「小春さんすまない」
「どうして謝るんですか?」
「栄太郎の縁談がまとまりそうなんだ」
(縁談……)
「吉田さんはよく縁談を引き受けましたね。女嫌いなのは治ったんですか?」
「それはその……」
さっきからお父さんの話は歯切れが悪い。
「私から話します」
痺れを切らしたお母さんが代わって話し出した。
「栄太郎が毒を盛られた直後から福原家で療養しているでしょう? その恩もあるから、こちらが嫌だとしても今回の縁談はなかなか断れないのよ」
「そうですか……」
まんまと福原家の企みに乗せられてしまっているんだ。古高さんがいれば、福原家の人間が毒を盛ったという証言をしてもらえるけど、どう考えてもそれは出来そうにない。そのことを今ここで話したとしても証拠がないので、あてにはならない。
「それでその、明日栄太郎が家に帰ってくるの。面倒を見てもらう為にりつ様も通うそうなの。それで、その……」
お父さんに続いてお母さんも歯切れが悪くなる。そんなに言いづらいことなのだろうか。
「りつ様に、縁談がまとまりそうなのにいつまでも居られたら困るから、あなたを追い出してくれと言われて……」
簡単に言えば私は邪魔だということだ。小姓の立場だとしても年頃の女の人がお婿さんの実家に居候していると外聞が良くないからだろう。たとえ表面上の理由がそうであれ、りつ様の魂胆は見え見えだった。自分では分かりきっていたことなので意外とそこまで落ち込まなかった。ショックを通り越して他人事のようにさえ思えてくるから。
「分かりました。明日、吉田さんが帰ってくる前に出て行きますね」
「あのね小春さん、親戚のところにしばらくいてもらえたらいいからそこでも──」
「いいえ、そういう訳にはいきません。私も京に戻る用事があったのでよかったです。今までお世話になりました」
最後の方は若干言い捨ててしまい、その場を後にしてしまった。
(これでよかった……)
本当はよくない。本音は嫌だと言っている、胸がぎゅっと締めつけられるのに……。
私がここに居残ると言い張っていたら、お父さんやお母さんの立場がなくなる。だからここは身を引いて正解だった。
そうなれば早い方がいいと、今日のうちに出ていこうと思い、部屋に戻って荷物をまとめることにした。するとふさちゃんがやって来た。
「姉上、行ってはダメ」
「あのねふさちゃん」
「ダメなものはダメなの! 私が姉と認めるのは姉上だけなの!」
「ありがとう。でも私も用事があって京に戻らないといけないの。だから分かってくれる?」
ふさちゃんはあまり納得していないみたいだった。そういう頑固なところはさすがは兄妹、よく似ているらしい。
「吉田さんだっていつかはきっと記憶を戻すでしょ? そうしたらきっとまた私の後を追ってくれるから、その時まで待ってて」
その言葉は半分自分に言い聞かせたものだった。そのいつかは、来るかどうかは分からない。
「分かってる大丈夫だよ、兄上はきっとすぐに思い出す。姉上を待たせるほど兄上は馬鹿じゃないから」
ふさちゃんの言葉はとても温かった。だけどその〝すぐ〟が、私が現代に戻る前ならいいけど、戻った後だったらと考えると……考えたくもない。
多くもない荷物は小さな風呂敷包みになり、それを抱えて旅支度に着替えた。京までの道のりは遠いからしっかり準備しないと大変なことになる。幸い、萩に来る時に使ったものがあったのでそれをそのまま装備すれば充分だった。
引き止められそうだったので、吉田さんの両親には気づかれないようにそのまま出ていこうと裏口の方へとまわると、誰かが立っているのが見えた。
「あれなんで高杉さん?」
「おいお前どこに行こうとしてる?」
「なんでここにいるんです?」
「俺から逃げるつもりだったのか?」
「なんで裏口にいるんです?」
「お前が逃げやしないか見張るためだよ」
「なんで?」
その時、表の方が賑やかになってきた。誰かが帰ってきたらしい。その人物にはとても心当たりがある。
早くここを発たないといけない。その一心で高杉さんの横を通り過ぎようとすると、腕を掴まれた。
「もう心が折れたのか?」
「はい、折れました。だから行かせてください」
「ダメだ。縁談がまとまりそうだから逃げたいのか? それとも栄太郎と会うのが辛いのか?」
「……両方です」
あの態度の吉田さんと再び顔を合わせると、心がもう持たなかった。
「そもそもお前、行くところなんかないだろ? どこに行くつもりだった?」
「京に戻ろうと……」
「はあ!? お前は馬鹿だな! 俺が味方になってやると言っただろ! なんで頼らないんだ」
「……その考えはありませんでした」
高杉さんはがっくりと項垂れた。
(だって本当のことだもん!)
高杉さんを頼ろうとは頭になかった。久坂さんだったら頼っていたかもしれないけど、頭に出てこないくらいに切羽詰まっていたのは一理ある。
「栄太郎が帰ってきた。会ってからでも遅くはないんじゃないか?」
「でも──」
「小春の名前を出した途端、目の色が変わったんだよ。もしかしたら思い出したかもしれねぇ」
「え?」
「ほら行くぞ」
そう言って私の手を掴んで歩き出した。
「そういや、その髪の毛はどうしたんだ? 栄太郎にふられたからばっさりか?」
その口うるさい冗談に対して鳩尾に一発返してあげた。
「お前なぁ! 俺はこれでも心配してるんだぞ! お前が泣きはしないかと──お、おい泣くな!」
もう遅かった。今まで溜めに溜めてた涙が、何故かこのタイミングで溢れ出してきて、自分でも止めることが出来ないほど溢れてきていた。
「わ、悪かった! な? もう冗談は言わねぇから」
止めようと思っても止まらない、次から次へと流れてくる涙は止まることがない。そんな様子に、高杉さんは仕方がねぇなと頭をポンと撫でてくれた。涙を拭こうと、目を閉じた一瞬の間のことだった。
(あれ?)
高杉さんが目の前から消えた。消えたというより、三メートル先まで吹っ飛んだ。それに驚いて私の涙は引っ込んでしまった。一体何が起きたのかと、高杉さんが吹っ飛ばされた反対側を見ると、吉田さんが〝あの状態〟で立っていた。
「ご、ごめんなさい……」
何故かそう呟いてしまった私のその言葉が、吉田さんの癪に触ったらしく、高杉さんは尚も殴られてしまうことになってしまった。
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