蝉の抜け殻。

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(え、どうしよう、止めた方がいい?) 高杉さんへの暴力は止まる気配がない。そもそも何に怒っているのか見当もつかない。 「吉田さんあの……」 「……」 無言で殴り続ける様に、だんだんと怖くなってきた。高杉さんは悪くないと言ってみるも、なぜ庇うのかとその手は一向に止まらない。高杉さんの顔の形が分からなくなりそうだったので、吉田さんの振り下ろす拳を両手で抱きとめた。 「やめてください! 高杉さんは悪くないです!」 「じゃあなんで泣いてたの?」 「それは、その……」 「やっぱり晋作のせい──」 「吉田さんのせいです!」 「僕のせい?」 「吉田さんが私の記憶をなくしてしまって、思い出す気配がなかったから……」 「……それは、悪かった」 「今日帰ってきたのは、私のことを思い出したからですか?」 「それは違う」 (ああ、やっぱり) しかしそれでも私への態度は柔らかくなっている。 「晋作が、ここ一年で起きたことを話してくれた。僕の小姓をしてくれたその人は『小春』と言うから、幼い頃に出会った小春を思い出した。それで確認しようと帰ってきただけ」 「じゃあ──」 「幼い頃に会った小春は覚えているよ」 文机の引き出しに蝉の抜け殻がしまわれていたのは偶然じゃなかった。ちゃんと吉田さんは幼い頃のたった一日のことでも私を覚えてくれていた。 「それよりも吃驚(びっくり)したのは、なんで君は全く変わっていないの?」 (あ……) 「それは聞かないでください」 「へぇ」 聞かないでくれと言われれば気になるのが人間の(さが)だ。私は目をそらすも、吉田さんはいたずらっぽく私の短くなってしまった髪の毛を撫でるように梳きはじめた。今までの態度とは全く違うそれに驚いてしまって固まっていると、助け船とも思える横やりが入った。 「おい、人前でいちゃいちゃしてんじゃねぇよ」 「そ、そうですよ! 何してるんですか」 そう言ってパシッと手を払った。 (記憶があった頃よりも、あからさまな気がする。気のせい?) 「その格好は何処に行こうとしてた?」 「それは……」 この旅支度は変に思われて当然だった。けれど本当のことを話すわけにもいかず口を(つぐ)んでいると、高杉さんがベラベラと全部話してしまう。 「お前の縁談がまとまりそうになって、その縁談相手が小春に出て行けと言ったのさ」 「縁談?」 「人の話聞いてなかったか? お前は今、福原家の息女と縁談がまとまりそうになっているんだよ」 「馬鹿馬鹿しい。縁談は無しにするよ」 「そうは言ってもな、お前が毒を盛られて倒れた時に手を差し伸べてくれたのが福原家であって、その恩を仇で返すわけにはいかねぇだろ」 「勝手に恩を押し売りしただけでしょ。それよりもよく考えたらどう? 縁談をまとめるために毒を盛ったと」 「あっ……」 「何? 小春は何か知ってるの?」 ずっと話そうかどうか躊躇(ためら)われたことだ。古高さんが福原家に出入りして毒薬を卸していたこと。古高さんはそれを証言してくれるはずもなく、行方も知れず今更話してもどうにもならない。だから話をすることは避けていた。 「何か知ってるの?」 「それは……」 「全部話して」 吉田さんの圧力に負けて、話すことにした。 「昨日高杉さんは会いましたよね? 福原家に出入りしていた薬種問屋の人に。その人が吉田さんに盛った毒を卸していたみたいなんです」 「やっぱりな。薬種問屋の長次が怪しかったか。どうりで、最初はお前と知り合いじゃないと言い張ってたが、嘘をついてた。そういう事だったんだな」 高杉さんは妙に納得したみたいだった。 対して吉田さんは怪訝な顔をしている。 「栄太郎どうする? 福原家を調べれば色々と出てきそうだが」 「このことは僕が片付ける。晋作は福原家に行って、縁談を無かったことにしてもらって。小春は今すぐその荷物を置いてきて。あの時の〝約束〟今さら反故にするつもりは無いよね?」 「……はい」 部屋に戻り荷物を置き、旅支度も解いた。 吉田さんは両親と話していたらしく、話が終わると部屋にやってきた。 「お茶、淹れてくれる?」 「はい」 そのやり取りがなんだか懐かしく思えてしまって、少しほっとする。お茶を淹れて戻ってくると、吉田さんは文机の前に座っていた。文机の上に並べたままにしてあった蝉の抜け殻を眺めている。 「吉田さん、どうしました?」 「なんで名前で呼ばないの?」 「え? いつもそうやって呼んでいたじゃないですか」 「残念ながらそのいつもを覚えていない。幼い頃は名前で呼んでたから、そっちの方がしっくりくる」 「ですけど……」 吉田さんがその時は年下だったからだ。 それでも目で訴えてくる。その意図は分かっているけど、なんだか気恥ずかしくてそれがなかなか出来なかった。 「え、栄太郎さん」 「なに?」 表情は変わらずとも満足気なのが分かった。吉田さんと一緒にいたからこそ分かる些細な変化だ。 「今何をしていたんですか?」 「これを見ていた」 やはり蝉の抜け殻を眺めていたらしい。 「君は覚えてる? 最後に会った時に僕が渡したもの」 「覚えてるも何も持っていますよ」 そう言って、並べてあるうちの右から一つ目の抜け殻を指さした。 「これ。吉田さん──じゃなくて栄太郎さんがくれたものです」 「そう言われても見分けがつかない」 「そうですね。でも私にとってはこの贈り物が今までで一番嬉しかったです」 「幼い僕にはあんな物しかあげられなかった」 「気持ちがこもっていれば関係ありません」 「もっと他のものが欲しいんじゃない?」 「いいえ。私はもう充分です」 「これを」 そうして吉田さんが取り出したのは、赤い玉飾りがついた黒い(かんざし)だった。シンプルな作りなのに、どこか見覚えがある。 (そういえば……) 「これをどうしたんですか?」 「これを君に。記憶がないけれど、ずっと手元に置いてあって不思議だった。どうやら君にあげるために持っていたらしい」 「いいんですか?」 「勿論」 「ありがとうございます」 簪を受け取った。私がタイムスリップする前に、吉田さんの生まれ変わりらしき人からもらった簪も似たような作りだった。でもあの簪は折れていた。私は島原を出た時にそれを失くしてしまったから、吉田さんが持っていたのかと思いきや、この簪は折れた形跡はない。だからきっと吉田さんが私のために密かに用意してくれていたものだ。 「祝言を挙げよう」 「……え? 今なんて言いました?」 「祝言を挙げようと言った」 「誰と誰が?」 「君と僕で」 (聞き間違いだ、きっと) 「無理です」 「何故?」 「だ、だって」 吉田さんが言ったことに現実味が感じられない。りつ様との縁談を断ると言っていたけど、そう簡単に解決することじゃない。それなのに祝言を挙げようだなんて、無茶だ。そもそも私は──。 「栄太郎さんの記憶が戻るまで、それは出来ません」 「逃げるつもり、じゃないよね?」 その質問は全部見抜かれているといってもよかった。今の私は吉田さんと一緒にいられない。古高さんとの約束もあるから祝言どころじゃないこと。吉田さんは理由は分からないにせよ、私がいなくなることを勘づいている。そしてその理由を知られるとかなりまずい。 「そんなことありませんよ」 「なら三日後、祝言を挙げよう」 「それはできません」 「なら僕は福原家の婿になるとしよう。小春はそれでもいいの?」 (ひどい! そんな言い方をされれば祝言を挙げなくちゃならない) 「……分かりました」
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