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祝言をむかえる日の早朝。まだ太陽は昇っていない。二つ並べた布団の一つに吉田さんはぐっすり眠っていた。もともと不眠気味であったのに、今日は珍しく眠っている。
その綺麗な横顔をしばらく眺めてから、私は布団から出て着替えを済ませた。
文机には書き置きを残して、数日前にまとめて荷解きしなかった風呂敷包を手に取り、静かに部屋を出た。
(ごめんなさい)
心の中でひたすら謝るしか無かった。
祝言を心待ちにしていた様子の吉田さんにはひどい仕打ちだ。当日に逃げ出すなんて。
だけど私の決意は揺らがなかった。昨日気づいてしまったから。祝言を挙げてしまった後吉田さんの記憶が戻ったら、きっと後悔するだろうと。
古高さんとの約束だってある。
千歳さんの遺書を一さんに渡すこと。残りの二日以内に萩を出なければ、私の身近な誰かが危険な目にあってしまうかもしれない。このことを今の吉田さんに話したところで理解は得られないと分かっていたから、私はこうするしか無かった。
吉田さんの家族にはひどい女だと思われるだろう。あれだけ楽しみにしていたから、どれほど落ち込むかは想像出来た。そのせいで足が時折躊躇ってしまう。祝言を挙げてから出ていけばいい、そう何度も思った。だけど吉田さんのことを思うとそれが正解じゃない気がして……。今更ながら自分の覚悟も足りなかったと自覚して、安易に『分かりました』と言ってしまった自分をひどく後悔している。
吉田さんからもらった簪も、今の自分には持っている資格はないと感じて枕元に置いてきてしまった。
(怒るだろうな……)
怒ると分かっていても、言えなかった。
本音では祝言を挙げたかった。だけど自分の希望を通したところで、吉田さんの記憶が戻って私が半年後には帰ってしまうことを知った時のことを考えると自分一人で決めてはいけないと思ってしまった。
自分の気持ちに素直になりたくともそう出来ない、単純に考えられない自分に嫌気がさしてくる。
家を出ると、後ろに振り返り深くお辞儀した。今までお世話になった吉田家の人達にたくさんの恩がある。その恩を仇で返してしまう申し訳なさからなかなか頭を上げられなかった。
その後は意識があるのかないのか、とぼとぼと歩き、気付くと番所が見えるところまでやって来ていた。朝焼けが眩しい。ここを超えてしまうともう戻れないようなそんな気がした。しばらくの間、躊躇ったけれど覚悟を決めて足を踏み出した。
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