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記憶の中で。
明け方。隣で衣擦れの音がして、布団から出たのだと分かった。あの時から睡眠が浅くなってしまったので、ちょっとした物音でも起きてしまう。
小春は着替えている。いつもの事だと思われるが、今日は違う。目を閉じたまま耳を澄ませていると、そのまま部屋を出たのが分かった。
僕から離れてしまうのは何となく分かっていた。分かっていたから僕の我儘を押し通した結果、こうなった。しかし。
(何も当日に出て行かずとも)
祝言の当日になって花嫁が出て行くとは、こちらの面子は立たない。そうは言ってもそんなちっぽけな面子よりも、何故出て行ったのかその理由が僕は知りたかった。
小春が部屋を出て行き暫くすると、僕も布団から出た。真っ先に目に留まったのは、枕元に置かれた簪だった。これまで置いていくということは、今後二度と僕と会うつもりは無いらしい。
文机の方へと目を向けると、置き手紙がありそれを手に取り目を通した。どこか見覚えのある書き方で、内容は謝罪の言葉と、本当は祝言を挙げたかったのだという小春の本音が書かれていた。
(ならば何故……)
ますます疑問を感じる。本人は祝言を挙げたかったのに何故出て行ったのか。一番に考えられるのは誰かがそうさせるように仕向けたことだ。大方福原家が絡んでいるのだろうと睨んだ僕は、羽織りを手に取り家を出た。
行き先はもちろん分からない。どの方向に行ったのかさえも分からない。ただ、何となく勘を頼りに歩を進めると藩の境にある番所が見えてきた。明け方の口留番所には人っ子一人いないが門は開けられていた。そこに一人の女がぽつんと立っており、それが小春だと分かるのにそれほどかからなかった。
こちらに気づいてない様子の小春が急に歩き始めたので、急いで駆け寄り腕を掴んだ。
「何処に行くつもり?」
声をかけると、振り向きもせずに答えた。
「離してください」
「無理だよ。祝言を控えているのに逃がす訳にはいかない」
「祝言のことなら謝ります。だけど、行かなければならないんです」
「誰に言われた? 福原家が絡んでるんでしょ? 狸親父に何か言われた?」
「違います」
(違う?)
「じゃあ誰が」
「私が決めたことです」
思わず腕を掴む手に力がこもってしまう。
「なんで逃げるの?」
「見逃してください」
「なんで!」
「お願いです」
「無理だよ、帰るから!」
「吉田さん──」
「吉田じゃない!」
怒鳴ってしまって後悔する。
(怯えさせてどうする。そうじゃなくて僕はただ理由が聞きたいだけだ)
「悪かった……。ただ、理由が知りたい。それだけでも教えてよ」
小春の手首を掴んでいた手を離した。強く握ったせいで赤くなってしまっている。
「言えないです」
「どうして?」
「今の栄太郎さんを傷つけてしまうから……」
「今の僕?」
ということは、小春の理由には記憶を失った部分が絡んでいるということだ。今の僕が知ったら傷付いてしまうこと。記憶がない僕が知らないこと。
「それでも構わないから」
「だけど……」
「そう簡単には傷つかない。そもそもそんな風に僕は見える?」
やっと顔を上げた小春が、静かに首を横に振った。
「なら話して。大丈夫だから」
折れたようで、少しずつ話し出した。
祝言を挙げてしまうと僕の記憶が戻った時に後悔してしまうかもしれないこと、京に戻らなければならないことも話してくれた。しかし──
「京には何故戻る? その理由は?」
「それは、その……」
「言いたくないこと?」
「新選組の斎藤一という人の元へ遺書を届けなければならないんです」
「何故? 遺書って? そいつと小春は何の関係?」
「京で出会った知り合いです。一さんの幼馴染に千歳さんという人がいて、その人の遺書を届けるんです。私は千歳さんの生まれ変わりなので──」
「待って」
話がおかしい。生まれ変わりならば、小春はまだこの世には居ないはずだ。そもそも何故生まれ変わりだと分かるのか……。
いや、信じ難いが僕は子供時代に今と姿が変わらない小春と会っている。そのことから辿り着くのは小春は時代を行き来できるということ。それしかなく、俄かには信じられなかった。
「君は何者なの?」
「それは……」
「大体想像はついている。話しても大丈夫だから言って」
「……私は未来からきた人間です」
(やはり間違いじゃなかった)
「未来からって何年後?」
「およそ百年後です」
「……信じられない」
「今の栄太郎さんは絶対信じないと思って言えなかったんです」
だから何も言わずに京に向かおうとした。説明したところで理解は得られないからと。しかし勘違いしないで欲しいのは、たとえ信じたとしてもそれもまた理解は得られないということだ。
「こないだ話した、薬種問屋の人を栄太郎さんは覚えていますか?」
「覚えているよ。今ちょうど調べている」
「その人は本当は古高俊太郎という人で、私をこの時代に送り込んだ張本人なんです」
「どういうこと」
自然と声が強ばる。その張本人が何故、福原家に出入りしていたのか。
「福原家に薬種問屋として出入りしていたのは、栄太郎さんに毒を盛らせるためだったんです」
「じゃあ本当の黒幕はその男だと?」
「はい」
その古高という男が、千歳という女の遺書を新選組の斎藤の元へ届けろと小春は脅しを受けたらしい。何故わざわざそうさせるのか問うと、古高という男は斎藤と小春の縁を結ばせたいからだということだった。
古高の顔は福原家では見たことは無い。会ったことは無いはずなのに、嫌な意味でどうにも引っかかる。
「もしかして幼い頃、僕に会いに来た時にいた男がそう?」
「はい……」
瞬間、怒りが沸いてきた。
(あの嫌な雰囲気のあの男が……!)
怒りを抑えられなくなりそうになり、強く拳を握りしめた。
しかし許せない。小春をこのような状況に追い詰めているその男に怒りが無限に沸いてくる。
「あとそれと、私には時間がありません。半年後には未来に戻らなければならないんです」
「それはどういうこと?」
「古高さんがそう設定してしまって……」
「何で!」
「その、時代を行き来できる装置があって、古高さんは勝手に私の装置を未来に戻るように設定してしまったんです。こればかりはどうしようもなくて、その──」
「もういい、分かった。小春は京に行かなくていい」
「だけど」
「僕の怒りが収まらない。今すぐそいつを探す」
「ダメです! 約束した時点で一週間以内にここを発たないと、また栄太郎さんみたいに誰かが同じ目に会うと言われて……。あの人はどこかで見ています。こうして探そうとしていることも」
小春にとってそれが足枷になってしまっている。今すぐ家に連れ戻し、この先ずっと実家に滞在させたかったが、そのせいで誰かを危険に晒すのは得策じゃない。
「約束の期日は何時?」
「あと二日」
「ならそれまでいればいい。その間にどうするか考えよう。本当は行かせたくないけど、そうはいかないみたいだ。明日には佐助がこちらに来る。一人で行くより佐助がいた方がいいでしょ?」
今の僕にできる精一杯のことだ。相手は得体の知れない人物。下手に抵抗するのではこちらも足元を掬われてしまう。幸い佐助が玄瑞の遣いでこちらに戻り、すぐ京に戻る予定だったのが救いだった。
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