記憶の中で。

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小春が行ってしまった翌日。 父と妹が祝言を取り止めたことをああだこうだと(うるさ)く言うかと思ったが、母が抑止力になったみたいでいつも通りに過ごしていた。 福原家との縁談は正式に破談になったと報せが届いた。これでもう小春との祝言に障壁は無くなった。僕の毒殺未遂の件に至っては、福原家の使用人に口を割らせようと動いている最中だった。 「何か分かった?」 「そう言われてもなぁ」 晋作‪が我が家にやって来て、縁側で呑気にお茶を(すす)っている。 「やっぱり小春がいねぇと茶はうめぇな」 「刺すよ」 「悪い悪い。そんで使用人の件だが、証言してくれそうな人物はいるにはいる。だがなぁ、どうも向こうの親父の動きが静かすぎて、きな臭いんだよ」 「そうは言えど、こちらとしては早く京に行きたい」 「それはやめとけ。京の情勢をよく知らないだろうが、お前は新選組に顔を覚えられてるからすぐに捕縛されるぞ。そもそもお前はあの時脱藩したから難を逃れたようなものの、あの時捕まってたら死んでたぞ」 そう鬼気迫る表情で言われても、いまいちぴんとこない。記憶がないというのはこういう時に便利だ。 「藩に戻る気はあるのか? 今だって出獄の命が出されただけで、藩に戻るかどうかは決まってないんだろ? どの道選択肢は一つしかねぇけどよ」 「まだ分からない。記憶が戻らないと身の振りようがない。上もそれを承知で容認してるようなものでしょ」 「そうだが、それは元々のお前を買ってるから大目に見てもらってるだけだぞ」 そう言われても記憶が戻ることが今一番の問題だった。あとの藩に戻るかどうかは二の次でしかない。 何故藩士としての務めを放棄したいと言ったのか記憶がないから分からないが、何となく分かりつつある。 「小春のことが心配なのは分かるが、つーか、記憶が戻ってねぇのになんで小春のこと分かったんだよ」 「幼い頃に会ったことがあるから」 「はあ!? ……あー、そういうことかよ」 「君の頭で理解出来るの?」 「じゃあ小春が未来からきたってのも聞いたんだな」 「知ってたの?」 「知ってるも何も久坂や入江も知ってるぞ」 「へぇ」 「そうつまんなそうな顔するな。小春が向こうに行けば久坂が考えてくれるだろ。まったく、なんでまた新選組に用なんかあるんだ、あいつは」 「薬種問屋の長次のせいだって」 「はあ?」 「あの男が小春にそうさせてるんだよ。元々小春がこの時代に来たのもその男のせいだから」 流石にそこまでは知らなかったのか、晋作の持っていた湯のみがするりと手から抜け落ちて、地面の上でぱりんと割れた。後で弁償して貰おう。 「じゃ、じゃあ薬種問屋の長次じゃない可能性もあるよな? 本当の名は?」 「古高俊太郎」 「はあ!? そいつは久坂とつるんでる奴じゃないのか?」 「知ってるの?」 「名前だけはな。以前久坂から話を聞いたことがある」 そうなれば話がまとまるのが早かった。早く事を片付けて京にいる玄瑞に話を聞かなければならない。今の目的はそれに限る。 玄瑞が古高俊太郎について本当のことを知っていることは無いだろう。それでも聞かないままでいるよりは聞いた方が幾分良い。 「祝言、挙げるつもりだったんだろ?」 「そうだけど」 「何で挙げなかったんだよ」 「小春が僕のことを思ってそうしたんだよ。記憶が戻った時に祝言を挙げてしまったら後悔すると」 「いずれ小春が未来に戻っちまうから、無責任なことは出来ねぇってか?」 「そういうことだと思う」 「女ってのは面倒臭いな。こっちが祝言を挙げると言ったら大人しく従っとけっての」 「小春はそこらの女とは違うから。晋作の女と一緒にしないで」 「へいへい」 その言い方が妙に苛々(いらいら)したので、鳩尾(みぞおち)に一発お見舞いした。 「二人揃って鳩尾はやめろ……」 少し前に小春から食らった一発を思い出したのか、そう言い残して晋作はパタッと倒れた。そこへ妹を呼びつけた。 「ふさ、晋作が湯呑みを割ったから後で請求しといて」 「はい、兄上!」 妹の手が妙にわきわきしているのを、見て見ぬふりすることにした。 その数日後のことだった。毒殺未遂の件に関して使用人から証言を得られることが決まり、これで福原家も今後何かしてくるようなことは無いだろうと一安心していた時だった。藩主、毛利敬親(もうりたかちか)に呼び出された。
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