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萩の城、本丸の中では藩主毛利敬親が中央の上座に鎮座していた。そこそこの中年にも関わらず威風堂々と貫禄をたたえているその姿は、趣味のいい扇子を手で弄んでいた。上座にいる藩主の少し離れた脇には福原の狸親父が控えている。
隣には父が居たが、どうにも居心地悪そうにしているその様に、流石の僕も申し訳なくなってくる。
「吉田栄太郎、そなたの決心を聞かせてみよ」
扇子を片手に肘をつきながら問うてくる藩主のその言葉は威圧的ではあるが声音は優しい。しかし発せられるその言葉によって頭に疑問符が浮かんだ。どうやら藩に復帰するかどうか決断を迫られているのは分かるが、何故こうも早まったのか不思議でならなかった。出獄の命が下された時には、体を養生させるのが最優先でその後のことは追々尋問するとなっていた。出獄してからまだ日が浅い。そのことを訝しんでいると、狸親父の口角が下品に上がっているのが見てとれた。
「決心と言いますと?」
「そなたが藩に戻り藩士としての務めを果たすかどうか聞いておる」
以前にも似たようなことを聞かれたような気がする。だけどその部分だけ頭に靄がかかったようにはっきりとは思い出せない。
「どうなのか?」
「……」
答えられなかった。頭では仰せに従いますと言葉として出ているものの、口が全く動かなかった。隣では父が慌て始めている。
「栄太郎どうした、早く答えんか」
そう言われるが、頑ななこの口は動きそうもない。
すると今まで静観していた狸親父が横から口を出してきた。
「殿、この者は返答する気もない。となれば答えはもう出ておりましょう。やはりこの者を再び投獄させるのです」
「されど、もう少し様子を見ても良いのではないか」
「そんな悠長なことは言ってられません。この者は謂わば藩にとっては飼い慣らせない犬と同等でしょう。その証拠に京では辻斬り事件を引き起こしたという噂もございます」
「うむ、さすれば仕方があるまいか」
このやり取りも、以前にも似たようなことを見た気がした。前は婿の話がどうだとか言ってなかったか?
あの時は確か──小春が……。小春が?
その刹那。今の僕が知る小春ではなく、髪が豊かに長かった頃の小春が脳裏に過ぎった。それを皮切りに次々に思い出されていく記憶。
倒れていた小春の脇腹を蹴った記憶。だし巻き玉子を初めて作ってくれた時。湯殿で倒れていた小春を抱えあげている記憶。僕の元から去っていった記憶。目の前で小春が刺された記憶。そして、脱藩し全てを投げ捨てて小春を迎えに行った記憶。
全ての記憶の断片が頭に一気に流れ込んできた。全てを思い出した頭は、膨大な記憶を処理出来ずにその場で思考停止してしまった。
「栄太郎どうした、聞こえんか! 殿がまたお前を投獄させるように言ったのだぞ」
囁きながら怒鳴る父の言葉は頭には入れど、右から左へと通過してしまう。今は戻った記憶が頭の中を占拠していた。
小春の言っていた、祝言を挙げると後悔してしまうかもしれないということ。ああそういうことかと得心した。と同時に、京に向かわせたことを酷く後悔する。
そして思い出した、脱藩した本当の理由も。
ふと、藩主毛利敬親にこう返答していた。
「勝手ながら、暫し考える時間を頂きたく存じます」
「何故だ?」
「己の弱さと向き合う為でございます」
思いもよらぬ展開に福原の狸親父は、顔を白黒させている。
「今しがた投獄させると申した筈だが、そなたは聞こえなかったか?」
「聞こえておりました」
「では命に逆らうつもりか?」
「はい」
「逆らうにはそれ相応の理由が必要だが、それはあるのか?」
「今まさに失くしていた記憶を取り戻したのでございます。何故自分が役目を放棄したいと申したのか思い出しました。その理由と向き合うには時が必要なのです」
狸親父は、ふんと鼻を鳴らした。
「そんなのが理由になろうか! 投獄されたくないだけであろう! 殿の命に逆らうとは死に値するのだぞ!」
「福原、静かにせい」
藩主は少しの間、扇子を閉じたり開いたりと考える様子を見せた後、その扇子がパチンと閉じた。
「そうか、分かった、許そう」
「殿! それはなりません! 直ちにこの者を投獄し──」
「福原、今や窮地にいる長州には若い人材が不可欠だ。そう易々と投獄など出来まい。もう少し時間を置いてからでもよいではないか」
藩主のその言葉に、狸親父はぐうの音も出なかったらしい。僕はいずれは藩に復帰するつもりだ。ただ、己の過去と決別する時が欲しかった。
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