記憶の中で。

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藩主との面会を終えて帰路につく最中、父はずっと頭を垂らしていた。 「何故あそこであんなことを言い出した。わしは肝が冷えたぞ」 「だったら来なければ良かったのです」 「そういう訳にもいくまい」 父には生きた心地がしなかっただろう。幸いだったのは藩主が未来を担う若者に対して寛大な理解があったということだ。そうせい公と呼ばれるように、なんでも『そうせい』と決めてしまうくらい大らかな人であった。 「晋作に会って行くので先に帰っていてください」 「小春さんのこともそうだが、いい加減しっかりしてくれ」 そう吐き捨てて、不機嫌な父は先に帰った。小春のことについてはまさか本当のことを伝える訳にもいかず、家族には僕が急用で京に遣いに出したと言ってあった。だから父が祝言を挙げなかったことを良しとしないことは痛いほど分かっている。僕もそうなのだから。 どうしようもないこの心持ちを切り替えて晋作の家を訪ねると、呑気に縁側で三味線を弾いてるそれに出会った。 「呑気だね」 見たまんまのことを皮肉ると、不愉快そうにその口をひん曲げた。 「思い詰まってる時はこうするのがいいんだよ。それより、そっちはどうだった?」 「狸親父にしてやられそうになったよ」 「平気な顔してよく言うよ。やっぱりきな臭かったか」 「藩士として復帰するのか尋問されたけど、すぐには答えられなかった」 「お前なぁ、だから言っただろ! 早いうちに覚悟決めとけって」 「五月蝿(うるさ)い。けど、おかげで記憶は戻った」 「本当か!? 良かった、それなら──いや良くねぇよ。まさか栄太郎、藩士として務めを放棄するとは言ってねぇだろうな?」 「(しばら)く考えさせて欲しいと言った」 「はあ!?」 そう言うと頭を抱え込んでしまった。どちらかというと頭を抱えたいのは此方(こちら)の方だ。小春を京に、まさか新選組の元へ向かわせるなど狂気の沙汰に近かった。 「なんで考えさせて欲しいなんて言ったんだよ」 「先生の事を消化する時が来たんだよ」 「……お前がその事を口にしたのは何時(いつ)ぶりだ? 俺達はもうとっくに受け入れた。とろいのはお前だお前」 「君みたいにガサツじゃないんだよ」 「まあ、お前は一番に先生を慕っていたから。それで? どうしたいんだよ」 「先生に会ってくる」 もう二度と会えない故人に会うには、その人の墓標に赴くしかない。先生が亡くなってしまってから、その事実を受け入れ難く一度も訪れたことは無かった。 「船を出してやる、行ってこい」 「いいの?」 「いいも何もお前は頑固で一度も行ってないだろ? 先生は待ちくたびれてる。だが許しを貰えないと江戸には行けないだろ? 小春のこともある。どうすんだよ」 その事については再び藩主と面会するつもりだった。それを伝えると、一筋縄では行かないだろうと言われる。ただでさえ時を引き延ばしているのに、今回ばかりは大目に見てもらえないだろう。それは分かりきっていたことだが、そこは小細工無しに正直に理由を話すしかないと思っている。 藩主というものはなかなか会えるものでは無い。前回の尋問から一月が経ち、やっと個別で面会することが出来た。今日は邪魔であった狸親父もいない。 「覚悟は決まったか?」 縁側に佇むその人──毛利敬親は、手元で盆栽を弄りながらそう訊ねた。後ろに控えていた僕は頭を下げて先に非礼を詫びた。 「手前勝手なのは承知しておりますが、江戸に向かう許可を頂きとう存じます」 「どういうことだ」 盆栽を弄る手が止まり、声音が低くなった。 「そなたは時が欲しいと言ったな? 時はやったはずだ。何が不満なのだ」 「誠に勝手ながら、先生の墓標を訪ねたいのでございます」 「なら、藩士として復帰してから行けばよかろう」 「それはなりません」 「何故(なにゆえ)だ」 「私が脱藩したのは先生の死が所以(ゆえん)だからです。藩士として務めを果たす前にそのけじめをつけたいのです」 頭を下げていても分かる、藩主がこちらに振り返ったのが分かった。何かを悟ったかのように、先程とは打って変わって優しい声音で訊ねてきたことに驚いた。 「何があった? 申してみよ」 「それは……」 「構わぬ、話せ」 「先生は私の恩人なのです。幾人もの門弟がおりましたが、私は特に先生を慕っておりました」 幼い頃の小春との約束を反故にされ、ただでさえ女嫌いであった僕は人間不信にまで陥りかけた。そこを救ってくれたのが先生だった。『学問は裏切らない』そう諭し、道を切り開いてくれた。その先生を安政の大獄で亡くしたことは衝撃だった。 「当時、先生が連行される際、生垣から見守ることしか出来ませんでした。私達に害が及ばぬようにと破門にもしました」 「そうか……」 「今日が正解だとしても明日にはそれが間違いになる。そんな世の中に辟易しました。故に脱藩など造作もないことでした」 「あの時は力及ぼすであったな……。しかしそんなそなたが何故、藩に戻ろうと決意したのだ」 「幼い頃、一人の女人に出会いました。その者は今までのどの者より私に対等に接してくれ……、その者のせいで人間不信に陥ったのですが、まあ、謂わばその者に恥じぬ生き方をしたいというのが理由です」 「それは例の女人か?」 「例の?」 「福原の縁談を断ったであろう。傍に女の小姓を携えていると聞いた。女とは妙だとは思ったが、その者か?」 「はい」 藩主が小春のことを知っていることに驚いた。話したつもりはなかったので、誰から聞いたのかと問うと、身近な悪友の名前が飛び出してきて、内心ため息を吐いた。 「そうか、では許そう」 ふとそう呟いたので、一瞬聞き漏らしそうになった。 「ですが──」 「元々投獄した時に恩赦にするつもりであった。それ故に前回も責め立てるつもりは無かったのだが、まあ福原が五月蝿くての」 「はい」 「今回ばかりは遊学の名目で許すとしよう。だが江戸への手形は藩士として記載するが、構わぬか?」 「構いません」 「では戻った時、再び話を聞かせてもらおう」 その言葉に再び驚いた。気軽に話など出来る存在ではないのに、話を聞かせてもらおうなど言われるとは思わなかったからだ。何か裏があるような気がしてならない。 「一つ提案なんだが──いや、頼みだ」 「何でしょう」 「帰ってきたら先程の女人を連れて参れ。女嫌いで有名なそなたを変えた人だ。一度だけ会ってみたい」 「ですが……」 「嫌か?」 「はい」 「まあ、そうであろう、女人が表に出るのは相応しくないのは分かっておる。しかしそなたの小姓をしている時点で、そのことを追求するのもどうかと思うがな」 負けた。本当は表に出したくはなかった。藩主でさえ会わせたくなかったのに、そう言われれば拒めない。「はい」と答えるしかなかった。
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