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その奇天烈な古美術商は日本橋にあって、今いる宿屋からそれほど遠くなかった。ただ、そのお店のある所が大通りから外れた場所で道が入り組んだ先にあったので、どうして栄太郎さんは分かるのか不思議でならなかった。
(迷う素振りもなくすいすい進むなぁ)
本能的な探知能力がすごいのか、一度も間違うことなくその古美術商に辿り着いた。
本当に知っている人が案内してくれないと迷いそうなところにひっそりと店を構えている。店の暖簾には小さな文字で『権兵衛』と書かれており、まさか権兵衛さんが営んでいるのかな? と思っていたらそのまさかだった。
店の主である権兵衛さんは、私達が入ってきたのを見受けると一瞬で表情が変わり、店の表に出て『営業中』の札を裏返してしまった。
「あの……」
「あんたはこの時代の者じゃないね」
権兵衛さんは私を見るとそう言った。年かさがいっていると思っていた割にはその声は意外と若かった。そして私の正体を瞬時に見抜いたことで栄太郎さんの警戒心が一気に上がる。
「そう警戒しなさんな。わしは敵でない、と言いたいが信じてくれるかの」
「あの、貴方は一体?」
私がたずねると、優しく笑ったその人は隠すこともなくスラスラと正体を明かしてくれた。
「わしは時間旅行者が使う問屋を営んでおる。まあそちらのお嬢さんの時代風に言うと“タイムトラベラー専用のコンビニ店員”ってところだ」
そのいかにも分かりやすい例えが妙にストンと落ちて、その権兵衛さんの見た目とは裏腹な言葉に思わず吹き出してしまった。
そんな私の態度にやれやれといった様子の権兵衛さんに、栄太郎さんは更に訳が分からないといった顔になっていた。けれど私が笑い出したことにより、さっきよりは警戒心が薄れている。
「お嬢さんは時間旅行者じゃないね」
「どうして分かるんですか?」
権兵衛さんは茶目っ気たっぷりにウインクした。これ以上は企業秘密ということらしい。
「時間旅行者でもないお嬢さんがこの店に辿り着いたということは、懐中時計を持っているんだろう?」
「はい、そのことなんですが──」
そうして取り出した懐中時計を権兵衛さんは確認して、やはりなと妙にうなづいていた。何か思うところがあったらしい。
「お嬢さんの帰る時間は設定されておるな。まあそれは不思議でも何でもないのだが、どうしてこれをお嬢さんが持っているのかな。この懐中時計は時間旅行者にしか扱えないはずだが……」
「その、古高という人が私に渡してくれました」
「ああ、やはり」
「知っているのですか」
「知っているも何も常連だよ。ただあの男は商売上仕方なく付き合いはあるが、あまり関わりたくない男でね。その男に引っかかってしまったのかい?」
私がうなづくと、可哀想にと私を慰めるかのように茶筒からお菓子を出してくれた。手際よくお茶も出され栄太郎さんと二人してお店の奥へと上がることになった。
「それで、お嬢さんは何に困ってここへ?」
「あの、懐中時計の設定を変えることは出来ませんか?」
「設定というと、この未来へ帰る日付かい?」
権兵衛さんはそう言うと栄太郎を一瞥して、そして次に懐中時計を眺めてから「そういうことかい」と小さく零した。
「お嬢さんは未来へ帰りたくないと」
「その、勝手に設定されてしまったんです」
「そりゃ勝手に設定するだろうね。この懐中時計は時間旅行者だけしか扱えない。第三者を送るも帰すもその人が決めることなのさ。だからお嬢さんにはどうしようもない事なんだよ」
「なんとかならないですか?」
「私は時間旅行者ではないただの商人だ。あくまで設定した人しか変えることは出来ないんだよ」
権兵衛さんの正体を知ってから膨れ上がっていた期待が、一気にしぼんでいった。それが表情に出ていたのか権兵衛さんは大きな温かい手で私の頭を撫でてくる。
「力になれなくて悪いね」
「いえ、無理を言ってすみません」
「ところで、そちらのお兄さんは名はなんと?」
「吉田栄太郎」
栄太郎さんがそう呟いた瞬間、権兵衛さんの先程までの柔和な表情が一気に消えた。
「ああ、なんてことだろうね。懐中時計の日付もおや? と思ったが、全く酷いことをするよ」
「あの、どうしました? 栄太郎さんが何か?」
「いや、こちらの話さ。……いや、お嬢さんは知るべき話なのかもしれないね」
なんの事だろうか。
「このお店は入り組んだ所にあって辿り着くのに大変だったろう? この店は時間が一切流れない不思議な場所なのさ、時間旅行者しか訪れない。しかしたまに普通の人間も迷い込むことがある」
権兵衛さんは訪れる人々によって、その時代に合わせるように店も権兵衛さん自身も装いが変わる仕組みになっているらしい。そして時間が一切流れない不思議なお店。それはつまり、権兵衛さんは過去も未来も全て分かっているということになる。
「今は確か文久の年だね?」
「はい」
「そうか。ならこれを持って行くといい」
そう言って近くにあった階段箪笥から取り出したのは小さな冊子だった。表紙はまっさら。内容は全く分からない。
「心配いらないよ。ただし、これを読むには相当な覚悟がいる。お嬢さんにその覚悟があるならこれを読むといい。それまではやめておいたほうがいい。わしにできる精一杯はこれくらいだよ」
言われたことを理解するのに少し時間がかかった。
(読むには覚悟がいる?)
その言い方はまるで、これから先とんでもないことが起こるからこれを読んで知っておくといいみたいな言い方で、あながちそれが間違いでないと気づくのは宿に戻ってからのことだった。
店を後にしようと立ち上がり、権兵衛さんに挨拶してからの去り際に、びっくりするようなことを言われた。
「久坂玄瑞によろしく頼むと伝えておくれ」
栄太郎さんも驚いたようで二人して「えっ?」と振り返ってみたものの、権兵衛さんに背中を押され店を出た時点で、来た時のお店は跡形もなくなっていた。
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