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祝言はもちろん取り止めとなった。小春がそうしたくないと言い張るのなら従うのは当然だ。その結果に両親と妹は肩を落としていた。無論こちらとしてはそれどころではなく、急に告げられた事実に頭が追いつくのが精一杯だった。小春も帰宅してからずっと顔が暗い。一度祝言から逃げてしまったということの罪悪感で更に居心地悪くさせているみたいだった。
「栄太郎、少しいい?」
「母上、何ですか」
いつも朗らかな母が珍しく無表情で僕を呼び出した。
「小春さんのことだけど、なんの事情があるかは知らないけど、あの時の娘さんなんでしょう?」
「あの時?」
「栄太郎が幼い頃、一晩預かってくれた娘さん、あの子が小春さんなんでしょう?」
「どうしてそれを──」
「あの短い髪の毛と顔は忘れられないわ。今回の祝言のことだって余程のことがあったから、人知れず行こうとしたのでしょう? お父さんとふさは怒っていたけど、二人のことは説得するから、目の前にある問題を解決してきなさい」
「母上がそのように思慮して下さるとは思いませんでした」
「誰の母だと思ってるの? 必ず小春さんは連れて帰って来なさい。栄太郎は一生独り身だと諦めていたのに、折角のお嫁さんを逃がすもんですか」
母には全てお見通しだった。小春の正体も少なからず直感で分かっているだろう。
「ありがとうございます」
「礼などいいから、早く孫の顔が見たいわ」
そう言う母の願いは届かないだろう。ただでさえ僕もその事実に打ちひしがれているのに、本当のことなど口が裂けても言えなかった。
その日の午後、予定より一日早く佐助が京から帰って来た。
「吉田先生、お久しぶりです! 久坂先生からの文を届けに来ました。投獄されたと聞きましたが大丈夫ですか? それよりも毒殺未遂にあったとか!? 本当に大丈夫ですか?!」
「それより文を」
久方ぶりの再会で捲し立てるところは、まだまだ落ち着きが足りないらしい。そうは言っても玄瑞のところで少しは勉強になったみたいだ。
文を開けると近況が書かれていたが、記憶が戻らなければ全てを理解するのは少々難しい。今の僕にとっては記憶を取り戻すことが急務だった。
「小春が京に向かうことになった。君は直ぐにでも発つでしょ? 一緒に連れてって欲しい」
「え? でも、吉田先生はご実家が安全だからと小春さんをこちらに連れてきたのでは」
「そうもいかなくなった。玄瑞への文は書くから、よろしく頼むように伝えて」
佐助を下がらさせると、そのまま妹の所へ行ってしまった。久しぶりに会えたのにまた行ってしまうとなると、ふさも寂しがる。滞在時間およそ一刻。本当は充分に休ませてやりたかったが、こちらも急いで事を片付けたかった。
予定していた日より一日早く出立することになったので、部屋の隅では小春が支度をしていた。そっと呼び寄せる。
「どうしました?」
何も言わずにその身体を抱き寄せた。
少し驚いた様子だったが、すぐに身体を預けてくれる。
「すぐに追い付くようにするから。それまでは玄瑞の言うことを聞くんだよ」
「分かりました。栄太郎さんも体には気をつけてください」
「君がいなくなると口寂しくなる。だし巻き玉子が食べたい」
「散々作ったじゃないですか」
「君のせいで味覚がおかしくなってしまった。幼い頃に食べた味が忘れられなくて、今ではその味が一番好きだ」
「もう食べないでください。体を壊します」
「嫌だ」
一層強く抱き締めた。
「もういいですか?」
「まだ。暫く会えない分を補ってる」
その言葉に、目の前にあるその耳は真っ赤になった。
「必ず記憶は取り戻すから」
「はい」
「そうしたら正式に娶ることにする」
「え? でも──」
「記憶が戻って全てを知ったとしても、きっともう後悔はしない。それに母上も必ず連れて帰って来いと五月蝿いし。だからこれは持っててくれるよね?」
そう言って、返された簪を再び差し出した。
「栄太郎さんは本当にそれでいいんですか?」
「うん」
「栄太郎さんがよくても、まだ私には決断がつきません」
「なら、簪を持っててくれるだけでもいい」
「だけど──」
「言っとくけど拒否権は無いよ」
「ふっ。久しぶりにそれを聞いた気がします。分かりました、大事に持ってます」
「それでいい」
予定ではその手紙とやらを渡したらすぐ萩に帰ってくるようにと言ってある。ただ相手は新選組の者というから、以前小春が引き留められた件もあるので玄瑞の指示に従うように言った。僕の方も縁談の件や毒殺未遂の件、その他を片付けなければ京には向かえないが、それらはすぐに片付きそうもない。一番は小春が最短で行って帰ってくることだ。それが出来ることを祈るしかない。
行ってしまった二人の背中を妹と並んで見送った。
「兄上はひどいです」
「何が」
「せっかく佐助くんが帰って来たのにまた行かせるなんて。姉上も行ってしまうし……」
「仕方ない。必ず連れて帰ってくるから心配するな」
佐助と共に行ってしまった小さなその背中を、今はただ見つめるしか出来なかった。
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