序の章

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怒りに委せて力を振るうなど出来ない相談ではあるが、たまに我を忘れて力を行使してしまいそうになるのも事実だ。未熟な証か。 無意識の内に額へ右手を置いていると、凝視して来る視線に気付く。 彼女の目下の興味の対象は、俺がこの先に辿るであろう『選択』と『決断』らしい。 夫婦なのだから当然とも言えるだろうが、何せ彼女――リュビスリューラは特殊だ。 「大丈夫――まだ欠けてない。ギルアードは間違ってない」 唇だけで笑みを作り、透明感のある声が囁くように告げる。 リュビスは上手く笑う事が出来ない。 氷れる泉で生まれた時より、ある特異な事情から稀有なものを見る眼に晒され続けてきた彼女の表情は、いつも氷河のように冷徹だった。 まあ、出逢った頃には俺を警戒していた所為もあったのだが。作り笑いでも大した進歩だ。 ひんやりとした頬に手を置き、柔らかな瞼に軽く口付ける。長い睫が微かに震え、唇を擽った。 名残惜しくも顔を上げると、見上げて来る瞳を見詰めながら笑顔で告げる。 「そろそろ町が見えて来る。リュビス、約束通り、こいつを羽織ってくれ」 持っていた純白のマントを差し出すと、可愛い妻は渋々と羽織ってくれた。 ふかふかで温かなそれは、年老いて世を去りし白狼の毛皮を用いて作った物だ。 言語を解した尊き白狼は、彼女の友でもあった。己の死後に毛皮を剥ぎ纏う事を、リュビスにのみ許したのだ。 老いた『彼女』に取って妻は、孫娘のような存在だったのだろう。 リュビスは友の言葉に従い、その毛皮を氷の刃で剥ぎ取った。余程、代わってやろうかと思ったが、己の役目だからと拒まれたのだ。 震えながら友の遺骸に刃を入れる華奢な背中を、乞われるままに抱き締めてやったのが、昨日の事のように思い出される。 その折に彼女が落とした涙と、紅き白狼の血が結合し、幾粒もの宝石と成った。 血の護りを帯びた薄紅色の石は今も、緩く編まれたリュビスの豊かな銀髪と、俺の左手首を彩っている――。 毛皮のマントを羽織った娘は、どうにか真冬の旅行者に見えなくもない。 整いすぎて目立つ顔をマントのフードで隠させると、目指す町へと歩調を早める。 街道を外れた細い林道は、樵や狩人が使う道なのだろう。舗装こそされていないが、剥き出しの地面は堅く踏み均され足を取られる事もない。 進む内に、視界の果てに高々と聳える白茶けた煉瓦の壁が現れた。image=477978198.jpg
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