陽炎

8/23
前へ
/23ページ
次へ
「夜ちゃん、どうして…?」 沈黙の意味を正しく理解した彼女は、悲しげにわたしを見た。 「夏君のことが、嫌いになっちゃったの?」 違う、とわたしはすぐに否定した。 「夏目君のことを嫌いになることは、たぶん、一生ないと思う」 「じゃあ、何で離れようとするの?」 夏目君のことを嫌いになったりはしない。わたしが嫌いなのは。 ―わたし自身だ。 「わたし、昔、すごく嫌な人間だったの」 「え…?」 「打算的で、卑屈で。生きるために、ある人と、ばかみたいな契約をして。恋愛感情のない相手と、恋人ごっこをしてた。そんなこと、したくなかったはずなのに。何をしたら自分が傷付くのか、全くわからなかった」 自分のしあわせも悲しみも、あの頃のわたしは知らなかった。 「わたしは夏目君に、そんな自分を知られたくない。軽蔑されても仕方ないこと、いっぱいしてる。だから、怖い」 夏目君の宝石みたいな目。 あの綺麗な瞳に映り込む資格は、持っていないような気がした。 何もかもが見透かされてしまうようで、怖くてたまらなかった。 このひとから逃げたいと、初めて思った。 俯くわたしに、鏡花ちゃんが淡々とした声で言った。 「…夜ちゃんのばか」
/23ページ

最初のコメントを投稿しよう!

7人が本棚に入れています
本棚に追加