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過去の卑屈な私は、隣に寄り添ってくれているこの誠実な男のおかげで、とっくにいなくなっていたんだ。
「相馬さん……?」
もはや、必死に記憶を手繰ろうとする田浦のわざとらしい反応などどうでもよかった。
これは、私の過去の暗い思い出との完全な決別──。
「憶えてないですよね。
私、印象薄かったし。
でも、私は先生のことずっと憶えてましたよ」
わずかの皮肉をこめてそう言った。
「そうか。
それは光栄だね」
田浦は赤黒い肌に深い皺を刻んで笑う。
「俺たち、これから籍を入れるんです」
織人は田浦の方は見ずに、私を見つめたままそう言った。
「ほお。
そうか!
それはおめでとう!」
田浦は大げさに高笑いしながら言い、織人、私と順に手をとって強く握ってきた。
かさついた、硬い手のひらの感触。
わたしたちは揃って「ありがとうございます」と頭をさげた。
「お幸せに。じゃあ、また」
田浦は笑顔で手をあげて踵を返す。
「先生」
織人が田浦を呼び止めた。
田浦が振り返る。
「先生は今も教員を?」
「いや……。
一昨年大病を患ってね」
「そうですか」
田浦がふと淋しそうに笑った。
初めて見る、田浦の人間臭い表情だった。
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