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16
久保は、伊川と名札を付けた医者が「朝まで眠れるだろう」と言うのを薄れゆく意識の中でぼんやりと聞いていた。
――嫌だ。
――眠りたくなどない。
そう言おうとしたが、口を動かそうとしても動かない。
――目蓋が重くなる。
――何も考えられなくなる。
久保は自分の意識がどこか深いところに落ちていくのを感じた。
――沈んでいく。
――静かな暗闇へ。
体は鉛のように重く、手足は自分の意思では動かせない。
やがて深い眠りにつき、頬を涙で濡らしたままで寝息を立て始める。
「……お休み、久保セン。」
内田の呟いた声は、もはや久保には届かなかった。
気が付くと何故か競泳用のプールで、久保はその底にしゃがんでいた。
そこが競泳用のプールだと分かったのは、足元に見慣れた5メートル、10メートル、20メートルのラインと、編目の光に紛れて三角の旗が見えたからだ。
ただ、空と思しきところは、ゆらゆらと揺れていて、遥か頭上だ。
――水の中にいる。
水は冷たくもなければ、熱くもない。
それどころか、水圧も感じない。
エラ呼吸でもしはじめてしまったのかと思うくらい息苦しくもなく、ゴーグルも付けていないのに視界もクリアーだ。
網目の光が辺りを照らしている。
――静かな空間。
そんな状況にも関わらず「水の中にいる」という感覚を久保は抱いた。
(……何か大事な事があったはずなのに。)
思い出そうとしても、頭がぼうっとしてうまく考えがまとまらない。
〈……貴俊さん。〉
(――亜……希……?)
愛しいヒトの声に久保は辺りを見回す。
亜希は20メートル地点で、白いワンピースを着た姿で立っていた。
まるで、幼い頃に連れていかれた教会の聖マリア像みたいだ。
――柔らかな表情。
――穏やかな笑み。
久保は立ち上がる。
――5メートル。
――10メートル。
久保が歩むとベールみたいに波紋が生まれる。
そして、じわりじわりと周りにそれが伝播していく。
しかし、久保は10歩も進まないうちに前に進むだけの力がなくなってしまった。
(くそっ……、何だってこんな体が重たいんだ……。)
最初はさらさらの空気のような水は、見掛けは変わらないのにぬかるみのように粘度を増していく。
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