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「嫌……ッ!」
叫んでも、その声は虚空に消える。
――無数の手。
――無数の仮面。
そのどれもがニタニタと三日月型の目と口をしている。
――怖い。
怯えている亜希を鏡から引き剥がすように、それらは亜希の自由を奪い、夜の闇へよりもさらに濃い、昏迷とした闇へと誘う。
――怖い……ッ。
ただ、この場から逃げ出したい。
それなのに、口の中が乾上がって助けを呼ぶ事さえ出来ない。
亜希はわなわなと体を震わせた。
――助けは来ない。
『怖いか? お嬢ちゃん。すぐに気持ち良くしてやるからな。』
いたぶるような声。
鳥肌が立つ。
いやらしい笑い。
『――襲われてるのに感じてるんだね。』
――ココロガ、壊レル。
『薬も効いてるみたいだし気持ちいいんだろ? 認めていいんだよ?』
――思イ出シテハ、イケナイ。
亜希は鏡の中の自分に手を伸ばす。
――助けて。
縄が擦れる感覚。
薬のせいで、体が言う事を効いてくれない。
頭はいつしか考える事を拒否し、ただ、快楽に流される。
――コンナノ私ジャナイ。
ぼろ雑巾みたいになった自分が鏡に映し出されていて、獰猛もうそうな瞳の怪物が嬉々として襲ってくる。
――貪ラレル。
そして、感情に蓋をする。
――殺シテ。
――要ラナイナラ。
――イッソ、ヒト思イニ。
すると、鏡の中から手が突き出されて、やがて一人のヒトが表れる。
〈――助けて欲しい?〉
姿を現したのは、自分自身。
〈……私なら、あなたを助けてあげられる。〉
水面に波紋を築きながら、もう一人の自分が近付いてくる。
〈――無くしたいもの。〉
いつの間にか辺りには大鏡が乱立しはじめ、その真ん中に「二人の亜希」が存在する。
――ひとりは立ったまま。
――もう一人は、地べたに這いつくばったまま。
そして、目の前に現れた自分は静かに問い掛けを続ける。
〈――苦しい過去、生きにくい未来。どっち?〉
「――どちらでも構わない。」
無我夢中で自分自身に懇願する。
「少しだけでいいの……。」
――何もかも。
――忘れてしまいたい。
久保の事も、高津の事も忘れて、違う生き方をしたい。
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